AH!広島ショップ
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オーディオは楽しい
2009年 01月 21日 (水) 13:09 | 編集
オーディオは楽しい。

いまさらながら、長年オーディオと関わってきて、最近になってようやく「オーディオは楽しい」と思えるようになった。

オーディオは中学生の頃からの趣味だった。一オーディオファイルとしてさまざまな装置をとっかえひっかえ聴いてきた。色々なところに試聴にも行ったが、結局自分の手元において聴いてみないと納得もできなかった。ある時期には自分の思う音や音楽が聴けずにオーディオに絶望することもあった。
ひょんなきっかけから、音と響きを聴きわけること、にじみが少ない響きが綺麗な音楽が大切であることを理解した。そこに気づくとそれなりに納得の音楽が聴けるようになり、平行して素晴らしい装置にめぐり合うようになったのも不思議なものである。


かつての自分は音を中心に聴いていて、音楽を聴いてはいなかった。細かな音が聴こえると喜び、地を這うような重低音を凄いと思ったこともあった。小さなスピーカーで驚くような低音が出るバックロードホーンに感動したこともあった。後になってそれは遅れた低音のための量感であることに気づくのであるが・・・。けれどもそうした「音を聴くオーディオ」というものは、得てして長時間聴いていると不自然で疲れてくるのだった。

付帯音というものも、きちんと聴き分けていなかったのではないかと思う。「にじんだ音は嫌い」言いながらも、にじみを取り除く作業ではなく、高域を付け足すことを行っていた。明瞭な高域を「音がクリアーになった」喜んでいる自分がいた。
その際たるものがホーンスピーカーであった。ホーンでないとトランペットやサックス、シンバルの音は出ないと思っていた。WE16AやJBL375など良いといわれるものを所有し、音を追及し、それなりに満足もした。しかし、リアル感で言うなら、それはやはりホーンの音であり、リアルとはすこし違う、付け足した音だった。

アナログレコードの方がやはりCDよりも音がよい、と思っていた。
数値のことをいえば、CDとは20kHzまでしかでないから、と値をあげては豪語していた。先日、音声認識装置による実験に携った。オーディオ・楽器・人の声とも20kHzまで出ているものはほとんど無く、10kHz以上も少ないのが現実だった。どうにも数値上のスペックばかり気にしてしまう自分を情けないと思った。そして、20kHzという数値とはこだわることこそバカバカしい数値であることが、数値によって思い知らされた出来事だった。そこで再認識したのは、いわゆる数値上ではスピーカーはフルレンジで充分ではないか、よしんばツイーターを足すぐらいであれば満足のいく音が出るのではないかということだった。

アナログレコードとCDの音は確かに違う。だからといってそれをどちらがどれだけ優れていると比べることは、よっぽど無意味である。アナログは盤を針でこするので、そのノイズが乗り、つながりがよく聴こえ、CDには無い独特のよさがある。CDもAH!のCDプレイヤー、特にプロローグ8については、世界最速のオペアンプによりCDと思えない素晴らしいつながりを実現している。またクロックを含め全てをピンクノイズで統一することで、にごりの少ないバランスのとれた音を表現できている。なぜだか特に低音は素晴らしい。AH!による奇跡とも言うべきCDプレイヤーの進化だった。そしてAH!はおそらくこれからも進化が続いていくのだ。
こうしたプレイヤーを聴くにつけ、CDもアナログもそれぞれを個性として、音楽を楽しむことが出来るのだった。


なんでもそうだが、経験を積んでいけばそれまでの自分の常識が覆ることは多々ある。そして気づくか気づかないかは自身の心構え次第であろう。新しいことへの挑戦は、勇気もいり、知識も必要だ。そのことが自分の常識から離れていればいるほど、試みるのは難しい。だが、それにトライすると今までにないものを発見することができる。
挑戦もときに勘違いや思い込みに陥ってしまうこともある。それを回避するため、新しいものばかりに目をやるのではなく、古いものからも学ぼうとする必要がある。これに気づいたときに、私はオーディオへの絶望から抜け出せたと感じた。古いものだけに浸るのではなく、それを使い、応用し、新しいものと融合させることで、新たな発見や素晴らしい世界が見えてきた。
そして、ようやく「オーディオは楽しい」と思うに至ったのだ。


当店の試聴室の音は日々変化し、進化していると自負する。希望としてはどなたでも好んでもらえる音であるが、それはなかなか難しい。それでも最近ではお客様から当店に対し、勇気付けられるメールや試聴の感想をいただく。また尊敬する先達からのアドバイスもある。オーディオを通じ多くの人々と出会い、感謝に絶えない。
人もモノもそうだが、多くの関わりの中には別れも経験する。哀しいかな、出会いがあれば別れもあるのが世の習いだ。そのことが多くの人の幸せにもつながる、そう望める自分になりたいものだ。得も必要だが、損することも必要だと考える。自分だけが得をする世界はつまらない世界だと思う。「一方を聞いて沙汰するな」というように、考えを柔軟に持ちたいとも思うが、それにより知らず知らずに人を傷つけているのではと反省することも少なくない。このような私の話に傷ついたり、不快に思ったりする人もいることと思う。

こうした話もあくまで私が経験した出来事なので、ご勘弁いただきたい。ただ私の話から何かを発見してもらえるなら、嬉しい限りだ。
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音と響きについて
2008年 11月 01日 (土) 00:18 | 編集
オーディオが好きなひとは音楽好きでもあってほしいと思うが、どうしたことか音好きなひとが多い。

最近わたしがよく掲示板でも言っていることだが、TON(トーン、音)とKLANG(クラング、響き)を区別し聴くことが大切だ。
オーディオ装置の性能を良くすることと、響きをリアルにするのとは似ているようで少し違う。
性能が上がれば音がよくなると言い切ることはできない。
私の言うKLANG(響き)がきれいに聴こえるものではない。
KLANGについて的確に理解し、KLANGを聴くことができる装置を持ち、またKLANGをききわけることができる人がどれほどいるのであろうか。
楽器を演奏する人もしかり。
多くの演奏家とも話をする機会があるが、KLANGを理解する人は少ないと感じる。
言い換えると、響き(KLANG)こそが音楽の命、と考える人が少ない、と思うのだ。


現在の日本のオーディオの表現は足し算が多いと思う。
高域を足せば!
低域を足せば!
その足し方には間違いがあるのではないだろうか?
足すという発想そのものが間違いではないだろうか?
音の線を細くすることが、鋭さや繊細さを出すと思っていないだろうか?
そしてそもそも、自分の出している音に疑問を持つ人がどれほどいるだろうか?
日本のオーディオの姿に多くの疑問を抱き、そこからひとつひとつ私なりの答えを出してきた。

にじんだ味付けの音を聴かれている人に、響きの話をしてもなかなか理解されない。
高域が明瞭なことと、にじみのあることが聞き分けられないと、わからないことだろう。
当店に来店いただくお客様に、簡単な聴きくらべをしてもらうことがよくある。
この音の変化に驚き、感動するかどうかは、その人の求める音楽に比例すると思ってしまう。
装置を換えて音のレベルを上げるのはわかりやすいし、楽しい。しかし、現在使っている装置のレベルアップを試みることは、高い感性と技術力が必要となる。こと、音楽性をあげようとするのなら、「音が変わった」と捉えるのでなく、どのように変化をしたのかを感じとることが大切なのではないか。
これはなかなか文章にして伝えるのも難しいのだが・・・。
それは決して足し算的な変わり方では無意味だ。
むしろ引き算、要らないものを一つ一つ剥ぎ取る作業に似る。
「細かな音は聞き取れるようになったし、明瞭度も上がった」とするのではなく、「静かになり、音楽に深さが出て、サウンドステージがリアルに表現された」と聴きとれたら本物だ。
響きがきれいになると、最初は低域を物足りなく感じる人が多い。それは高域のにじみによって生じた低域のよどみが取り払われたことによる。「高域のピーク」というにじみ、「量感」という遅いスピードの低域。音をきれいに響かせるということはそうした「音の味付け」を取り払うことだ。本来の音を味わうことだ。すなわち、純粋に音楽を楽しむということだ。
だが、「明瞭な高域」や「重量感のある低域」を美しい音、臨場感のある音、という人も多い。私はそれを残念に感じる。オーディオの基本はTON(音)とKLANG(響き)を区別して聴き、KLANG(響き)を楽しむものだと考えるからだ。

「ドンシャリの音は好きではない」という人は多い。
私が「響きが大切ですよ」というのに反論しての発言であろう。
だが、そうした人も「柔らかく聴こえるドンシャリの音」を聴いていたりする。高域にピークがあっても、にじんでいると柔らかく聴こえる。そうした人の所有するCDはやはり高域に癖のあるものが多く、当店の装置で聴くとCDのノイズが気になることになる。それは大体において録音に原因があるのだが、当店の装置のせいにされることは少なくない。そうした人ほど自身の装置に自信がある。実のところ付帯な音にまみれているのだが、そのノイズを聴きわけられず、にじんだ音を柔らかい音と勘違いしてるとは夢にも思わないのだ。
本物を理解するには、それなりの経験(使い方)と自由度と発想力が必要だ。ある意味無駄な努力、まわり道もいるだろう。そしてそれ以上に大切なのは素直な心だ。
新たな発見に感動する心で、耳の痛い話には真剣に向き合う気持ちだ。(もちろん誹謗中傷は別である)

このごろドイツビンテージスピーカーをお薦めしている。というのもこれらは自宅で音楽を聴くのに大変適したスピーカーだと思うからだ。
けれども、私自身は馬鹿でかいホーンスピーカーなども所有していて、業務用が民生用より良い音がすると信じていたバカである。
それをいとも簡単にくつがえしてくれたのがドイツビンテージスピーカーだった。
シーメンスやテレフンケンの業務用がクラングフィルムであるが、ある部分においてはテレフンケンが1番優れていたりする。
しかし、業務用を鳴らすのはそれなりの設備、ノウハウ、スペースと難問が出てくる。こうした難問を全てクリアーしてスピーカーを鳴らしきる人はそう多くはいない。
名器を所有していて、音もそれなりに素晴らしいが、音楽が鳴らない、響きが聴こえない音を聴くことが多いのも正直なところ。
そうしたときに帰宅時に聴くカーステレオの音に救われる気持ちになることもある。

自慢や見栄、ステータスシンボル的な面もオーディオにはある。しかしやはりオーディオは、良い音を聴く道具である
今日、世界が絶賛し認めたものと、日本での評価の違いは一体何か?
もしそれが自宅で鳴らなければ、それはなぜか?
こうしたことを真剣に考えることこそが、どんな名器を手に入れることよりも、大きな進歩になると考えてほしい。当然AH!にしてもである。鳴らないのと鳴らしきれてないのとは大きな違いだ。
傲慢かもしれないが、心を割って話すことができれば、音楽の好き嫌いはあれども、何が大切かは理解しあえると思う。ただしそれにはプライドや見栄を捨てるべきであると、私は日ごろから自問自答を繰り返す。良い悪いという判断はなるべく避け、なぜこの音になるのかを考える。そしてそれが、どうすればどのように変わるのかを探していく。その繰り返しこそが面白いのだ。
私自身、人との対話において、その人と考え方が違うと話すことを躊躇したり、止めてしまうことも多々ある。おおよそ私の意見は、「考え方、視野を広くして下さい」ということに尽きるのだが、ともするとそうした話はプライドを傷つけることになることがあるので。
プライドの高い人ほど、素晴らしい情熱をもっているのに。
音は人なりである。

ドイツビンテージスピーカー
2008年 08月 23日 (土) 08:24 | 編集
8月初旬よりAH!広島ショップにおいて、本格的にドイツビンテージスピーカーの仕入れ、販売を開始した。ぼつぼつと問い合わせも来ている。嬉しいことだ。
店での試聴用にアメリカ・イギリス・イタリア・ドイツといった各国のスピーカー(以下SP)を揃えてはいたが、販売用にどういったSPを扱っていこうかと悩むところがあった。海外の新しいメーカーのSPを仕入れてみてもなかなかしっくりとくるものがないのだった。AH!と同様に世界に通じる、世界から評価を受けるものを販売したいと思っていたところ、ドイツのコレクターから素晴らしいビンテージスピーカーを譲っていただくことが出来るようになった。
第一弾としてフィールドSPやツィーターなどを仕入れた。そしてこのたびは日本でも人気の高い1950年代のSPや前回想像以上に問い合わせの多かったツィーターを数セット入荷することとした。

ドイツビンテージスピーカーについては、日本ではその真価がきちんと評価されているとは言いがたいところもある。果たしてこれらのSPを熟知し、鳴らす環境を整え、そうした後に評価を行っているとは思えないのだ。ドイツSPはクールで無表情、それに比べてアメリカのSPは温かみあって抑揚が大きいという人がいる。その評価は的を射てはいない。
誠文堂新光社のプレミアムオーディオ№2に「クラングフィルムの系譜」という興味深い記事がある。ここにいくつかのSPの図面や外観の写真が掲載されている。ここから推察されることは、この時代の人々はSPを箱に入れるという考えをもっていなかったということである。SPはそのユニットのまま、板につけたり、柱に固定されたり、エンクロージャー(とじこめるもの)が存在していないのだ。
箱を用いてドイツビンテージスピーカーを鳴らすのはかなりの困難を極める。
低音がやたら強調されたり、高音が詰ったりする。フィールドSPはとても早い音にもかかわらず、音のきれは冴えない。こうしたことはドイツビンテージスピーカーを現在ご使用の方なら、うすうす感じているのではないかと思う。
例えば、テレフンケンなどは高音は出ないと一般に言われる。だが木の板では高音に変なピークをつけていることを理解できているだろうか。
ナチュラルな響きの高音はすぐに阻害されやすく、高音が出ていないように感じる。高音は出ているのだがそれが阻害されている、と分かる耳をもつことは簡単で難しいことだ。邪道だが、すぐれたツィーターを足せばこの問題はすこしは解決する。
そうしたことよりも、手前味噌だが、ベリヒテンバッフルを1度使用したら、すべて簡単に納得できる。
綺麗な中低音が出れば高音も出る。これが過渡特性のよいことにも繋がる。

あらためて言うならば、ドイツビンテージスピーカーは飾り気のない普通の音、ということだ。明快な高音でもなく、腹部に響く低音でもなく、どこも強調されることのない音だ。
傾向としてはウエスタンエレクトリック(以下WE)と似ていると言えなくもない。というよりドイツフィールドスピーカーが1930年代の製造であることから、WEなどもこれに学んだと考えるのが妥当であろう。当店の試聴室にあるWE555やRCA・MI‐1444の音の出方もテレフンケンに少し似ている。
 しかし、音質について言うならばドイツビンテージスピーカーはまさに多彩。どれを聴いても飽きることのない、次々と違うものを手にして聴いてみたくなるような、魅力的な音に溢れている。
ひとつの音楽、ひとつの楽曲をそれぞれのSPが個性豊かに表現する。まさにSPがひとつの楽器の様を呈している。
モーツァルトも演奏家や楽器によって違いがあるのと同様に、それぞれのSPでそれぞれに違った表現、そのSPでしか聴くことのできない音があるのだ。

 私の好きなクリフォード・ブラウンがなぜボーカリストやバイオリンとコラボしたのか、ブルーノート・プレイステージを中心とした録音ではなく、エマーシーというレーベルを選んだのか、このテレフンケン12インチを聴くと理解できた気がする。
 ホーンスピーカーでないとトランペット(金属)の音は出ないと言う人もいる。だが私は現在所有しているJBLオリンパスやWE555+16Aホーンよりもテレフンケンのほうがずっと生々しく聴こえるのだ。

 この音を是非みなに聴いてもらいたい。AH!もそうだが、これらドイツビンテージスピーカーもなんら修飾されないいわゆる普通の音だ。この“普通の音”が真に生々しい音であり、豊かな音であり、“普遍”の音だ。
当店とお付き合いいただき、ご来店いただき、じっくりと音を聴いていただけるのなら、きっとどなたにでもこの“普通の音”の素晴らしさが理解できるだろう。この音の良さを理解すればするほど“普通の音”が好きになるに違いない。
 だが、この“普通の音”を出すためには相当無駄な努力(無駄ではないが…笑)と苦労と知恵も必要だ。
そしてもうひとつ、このオーディオバカの言うことを最後まで信じてみようかという人間性と・・・。

NT4000
2008年 07月 09日 (水) 10:35 | 編集
プロローグ8(以下PL8)の発売の後、影の薄くなってしまったNT4000ではあるが、これは深い可能性と能力を秘めたCDプレイヤーであるといえる。PL8とは違った楽しみを持っているともいえるし、ベリヒテンでNT4000をフルチューンしたならば、ノーマルのPL8では出せないポテンシャルを持っている。
それはアナログターンテーブル的な面白さであり、バージョンアップをするごとに音に劇的な変化をもたらす面白さであり、すなわちかなりいろいろと遊べるCDプレイヤーなのである。
皆様の考えるバージョンアップとは真空管クロック、アップサンプラーといったところだろうが、当店のお勧めはやはりなんと言ってもベリヒテンによるバージョンアップだ。簡単で低コストでしかも効果は絶大である。
まずは電源カバー。電源部分にベリヒテンが極めて効果的なのはもう何度も繰り返して述べている。音の変化としては、滲みが少なくなり静けさをもたらすものだ。そしてアップサンプラー以上に細かなディテールを聞くことができるようになる。
続いて、CDトレー周囲を固める3点セット。これはディスクに効果的に作用すると思われる。(なんともベリヒテンは製作者自身にもどういう理由でそうした作用をするのかわからないのも難点ではあるが) このセットはやや大袈裟ながらPL8のようにエネルギーがみなぎり、中域の厚みを増すことができる。
これらの製品は試行錯誤をかさね、ようやくHPに上げるに至ったものたちである。
当然の如く、真空管クロック・アップサンプラーを付けているのであれば、その効果はさらに倍加することはうけあいだ。
そして、NT4000の問題点のひとつであるボディ剛性をベリヒテンの底板やインシュレーター、カバーで補ったのなら、それはまったく別物のCDプレイヤーとなる。細かな音の表現とサウンドステージの再現を存分に聴かせてくれる。
こうしてベリヒテンでいくつかの弱点を補った後に真空管クロックやアップサンプラー、クロック用別電源をセットするのなら、これらの変化はより劇的で素晴らしいものとして聴くことが可能となる。

だがこれで終わりではない。ここからは音の楽しみ。
NT4000は真空管ドライブだ。この真空管E88CCを差し替えて楽しむことができる。この真空管の違いでアナログのカートリッジ交換のような遊びができる。
柔らかくウォームに浸りたいのならば、ムラードのE288CC
エネルギッシュで情熱的に芯のある音で聴きたいのならば、テレフンケンE88CC
静かで深く清らかで透明な音を求めるのならば、フィリップスE288CC
気品があり格調高くいきたいのであるなら、ブライマーE88CCかムラードE88CC
他にもまだまだ沢山個性的で音楽性の豊かな真空管はある。こうした遊びはPL8にはできないことで、そうした意味からもこのNT4000には無限の可能性があるといえるのだ。

AH!のアンプにはプロローグ1~7・ダイアローグ1,2・ミスティル1,2と発売されている。そしてこれからも続くわけである。だが、上位機種を望む前に、その装置の本来の音を出すことができているかを見直すことが重要といえる。
ミスティルやプロローグ3/6・3/7でもプロローグ1の音は出ない。
いや、プロローグ1でしか出せない音がある。
時々私もプロローグ1を聴く。するとシンプルで飾りがない、けれどもしなやかで優美な音に改めて驚かされ、聴き入る。スピードこそ他のアンプにはかなわないが、NT4000チューンとのバランスは素晴らしいものがある。古い味のある良い真空管を使用し、オフセットキラープロ・ベリヒテンでチューンして、ドイツの20㎝クラスのフィールドスピーカーで鳴らせば、これ以上の装置は必要ないといえる。
AH!もこれからも素晴らしいものはどんどん出る。お金がある人はそれを追い続けるのも楽しいと思うが、私が皆様にお願いしたいのは、今ある装置をベストな状態で鳴らしていただきたい、ということだ。

「上の上と思っていたら特上の下だった」と書き込んで下さった人がいた。そこに気がつくことが、その方の聴く力を向上させることだ。視野を広げ、聴く音楽が楽しくなる。
高額な装置を持っていてもその音をききわける耳のレベルの低い人は日本には多々いる。そうした人に共通するのは、自己満足と自慢である。
知ろう、学ぼう、と思わなくなった時点で終了だ。自分の考えと違う考えから勉強は始まる。他の人は良いというのに自分は良いと思わない、そこに疑問をもつかどうかだ。食わず嫌いは偏見に満ちたものとなるのは明らかな真理だ。
しっかり消化し血肉になった後に嫌いになるのはしかたないことではある。
しかし、何事も経験だ。
経験には時間とお金がかかるが、経験された方から学ぶことは手っ取り早い最善の策といえる。音は人なりということであろうか。
装置を換えても自分は変えられない。良い音にするためには自分を変える必要もあると考える。
AH!のめざす音
2008年 05月 25日 (日) 17:30 | 編集
今日、いまのこの瞬間、久々に「いい音だな」と思えた。
コーヒーをゆっくり飲みながらの至福のひと時。
私はクリフォードブラウンという交通事故で早世したジャズトランペッターが好きで、この人の演奏が自宅で納得する音で聴きたいと思い続けてきた。
そのクリフォードブラウンがすぐそこで演奏してくれているような、そんな気分にようやくなれてきた。

先日から当店の玄関の試聴室に次々と新製品が投入され、いままでここで聴いたことのない音が繰り出されている。
当店を訪れた人ならご存知だろうが、オーディオを玄関ホールに設置しているのだが、それを聴くのは隣のリビングなのである。それが凄く心地がいいのだ。
いい音だと思える音は数多く聴いてきた。しかし今回の音は今までのそれらとは少し違う。いい音であることに間違いはないが、音楽が楽しい。コーヒーを飲んでいても、他の事をしていても、すーっとそっちに耳が傾いてしまう。演奏家の表現したかった意図が手に取るようにわかる。
現在この玄関ホールに使っている装置はミスティルA11、プロローグ8、スピーカーは20センチのメンデ(フィールドSP)にベリヒテン平面バッフル、電源ケーブルはトリプルジャバラ、SPケーブルはKB10ダブルジャバラ、インターコネクトは幻となったシルバーリボンジャバラ、もちろんオフセットキラーもつけている。
であるからして、悪い音が出るわけがないのだが、今までこういう聴こえ方をしたのは初めてなのだった。

オーディオ的音とはかけ離れた音で、楽器的な音がする。聴きやすく、音がうそっぽくない。作られた見よがしな音でもない。これは音域を論じるべきものではない。数値などというものさしは必要がないのだ。そして、ニアフィールドで聴かなくとも満足のいく音。あえてオーディオ的な表現をすると、いままで聞いたことのないようなスピードの出る音だ。にじみがなく濁らない。どこまでも澄み切った、なのに柔らかく力強い。遠くまで音が届く。どこにも属されないような音。

日本のオーディオと海外のオーディオの評価基準はかなり異なることをご存知だろうか。
日本も最近ウェスタンエレクトリックなどが流行ってそれなりに古い音も評価されるようになったが、それでもやはり、高音が強く低音が遅い現代的音を支持する人は圧倒的に多い。家電量販店の高級オーディオルーム、そこに置いてあるオーディオ雑誌と取扱商品を示す付箋。評価基準の貧しさを感じざるを得ない。
当店に「私は高額なSPを持っていて、楽しんでいる」という電話があるが、そういう人と音の聴きどころの話をすると、漠然とした話にしかならない。よく私が言うように、低音のスピードとか、音の響き、にじんでいない音とは、エア感や普通の音、そうした話にはなかなか出来にくいし、そういう聴き方もしていない。
価格の0の数はものさしではないのに、これがいまの日本のオーディオ界の現状なのだろうと思う。

かく言う私も、最近になってようやく自身がオーディオの音の表現の仕方とか、聴き方とかがはっきりと話せるようになったし、なにがよいものかもわかるようになった。
昔の名スピーカーやAH!の装置を聞いていると、世界のオーディオファイルが求める音の傾向が理解される。AHのマーセル氏やドイツのHIFIコレクターとか、ごく一部のかなりレベルの高いオーディオファイル達が、求める音だ。
当店にお付き合いいただくお客様も、その音の評価をしてくれるようになった。当店に初めて来ていただくお客様でも、以前よりも評価をいただくことは多くなった。
ただ、瞬間聴いただけでは理解が難しく、何時間か聞いてもらってはじめて、音のスピードや滲みのなさ、楽器的な音に理解がいく。
当店のお客様は、そういう聞き方をして、自身の装置のレベルを上げて楽しんでいる。しかし、そういう人も個性はある。好きな音の傾向はある。好きな音の傾向を大切にしながら、よりいろいろなジャンルのものに、興味が出てくるし、理解しようという傾向にある。
例えば、ジャズしか聴かなかった人が、クラシックを聴くようになったり、ジャズ・クラシックが好きで、ロックを聴かなかった人がロックを聴くようになったりと、視野が広がっている。それは不思議な現象のような気がする。

AH!のめざす音、それはオフセットキラープロにも象徴される。
オフセットキラープロはある意味、オーディオファイルを二分する装置だと私は考える。この音の変化が、楽器的音が好きな人と、オーディオ的音が好きな人が分かれる気がするのだ。オフセットキラーの音は染み入る音でにじみがなく静かな音になる。それをどう評価するかである。これは聴き方によっては、高域が物足りなくなって、エネルギー感が失われたと評価する人も出てくるだろう。
だが、これが世界のトップレベルが求め、作り、行おうとしていることだ。
これを日本のオーディオファイルはなんとするのだろう。大して高額でもない、きらびやかな音の変化でもない、しかしその音の変化はオーディオの本質をついているとしか思えないのだ。

音のバランス 音の基本
2008年 03月 23日 (日) 00:23 | 編集
当店にRCA社のLC-1というスピーカー(以下SP)がある。メインの試聴室にあるSPで、最近ようやくお客様からこの音の評価があがってきた。
RCA社はご存知の人も多いと思うが、米国の主に業務用のオーディオを手がけてきた。このLC-1というSPもラジオ局やスタジオで好んで使用されていたものだ。アルテックやウエスタン・エレクトリック(以下WE)・JBLとはまったく違うなり方がする。いわば対極の評価がされている。WEのSPが細かな音まで表現されるのに対して、LC-1はバランスの良く、そこに音楽があるといわれてる。一音一音の明瞭度はWEが勝るが、LC-1はモニターSPといっても細かな音の表現はあまり得意ではなく、音楽を表現するSPである。

製作されたのは1960年代、モノラルからステレオへ移行する時代に重なる。当時はステレオ録音がそろそろ主流にとってかわるころだった。モノラル録音でもステレオ録音でもモニターSPとして役割を果たす必要を迫られていた。故にとてつもなくバランスのよいSPとして仕上がっている。
さて、ここで言うバランスとは一体何だろう。

ステレオが発明された理由のひとつは、簡単に量感や立体感を出したいと考えたからだ。
例えば自宅の装置でモノラル録音のものを聴いたとき、ステレオと間違えるくらいの奥行きとか定位感とかが表現されているだろうか。もしそれが表現されていればモノラルで充分、録音もセッティングもSPもひとつで充分である。ステレオにする必要はない。ただ、録音も楽にリアリティを求めたり、簡単に装置もリアリティを求めたりするにはステレオのほうが楽で、そういったことから今では圧倒的にステレオが主流になってしまった。
かつてモノラルが主体の頃にステレオを出したとき、バランスのとり方に難儀した。ステレオをひとつの音として出るのに違和感があった。ステレオでもモノラル的なリアリティを求めた。そうしてできたのがLC-1だ。2WAYなのだが同軸のようになっている。
ステレオとはもともとひとつのはずの音源を二つに分ける。右と左の音が重なったところはよく聴くとにじんで聴こえる。これはよっぽど耳がよくないとわからないだろうし、モノラルを聴き続けていないと気がつかないだろう。そして、優れたモノラル装置はステレオと聴き違うほどに奥行きや定位感がリアルに表現されている。

LC-1のバランスの良さはモノラルに通じる。左右から出る音がセンターに浮いてひとつの音として聴こえる。当時はステレオとモノラルが混在し、両者を同様にバランスよく鳴らすことに技術者たちは心血を注いだ。しかし今はステレオの全盛期だ。現代のSPは3WAYの上にさらにスーパーツィータ・スーパーウーハをつける華やかさである。ひとつの音を二つから四つ、六つ…と倍々に増えている。果たしてそのバランスはどのように判断できるのであろうか。
当店にソナス・ファベールの小型SPがあるが、これについている取説にはSPスタンドの高さ・SPのポジションとリスニングのポイント・周波数のグラフが描いてある。セッティングをメーカーに示されないとよいバランスは得られないということだろうか。周波数を測定しないと音の確認はできないということだろうか。
左右のバランスだけではない。高域・低域・中域のつながりがどうなのか。奥行は、リアリティは…。

古いモノラルの蓄音機から聴こえる生々しい音を聴いたことがあるだろうか。ナチュラルで音楽性に溢れた音だ。
20センチ程度の小型のフルレンジSPを満足に鳴らすことができるだろうか。アンプの選択・ケーブルの選択・SPや部屋のセッティング…これらで音はどうとでもなるものだ。

結局、我々が判断しようとするのなら、古いものから学ぶことが最適と私は考える。
古いものには基本が詰まっている。先人たちは自らの耳を頼りに音を判断し調整した。古いものの音の出る仕組みを学んでこそ、現代の装置を自在に扱い、自分の好みの音に料理できるというものだ。

当店にあるLC-1にしてもいくらバランスがよく音楽性に溢れるといっても、置いてすぐそんな音が出るわけではない。古いものから基本を学び、体得し、現代のものであるAH!のアンプやプレイヤーと組み合わせ、ようやく鳴るようになったのである。そして現状に納得はできても、満足するわけにはいかないのも、オーディオに対する基本的な姿勢である。
アナログレコードとコンパクトディスク
2008年 02月 20日 (水) 16:01 | 編集
アナログレコード(以下アナログ)とコンパクトディスク(以下CD)、未だにこの二つについて議論する人は多い。どちらがどう優れているのか、音の良し悪し、機器の良し悪し。最近はそこにSACDも加わる賑やかさである。
それでも最終的にオーディオファイルたちはアナログに憧れ、アナログに軍配をあげる。それはやはりアナログのもつふところの深い魅力なのであろう。斯く言う私も今またアナログレコードを少しずつ買い足している。
CDにくらべると何かとアナログは手間がかかる。スイッチひとつで音が出るCDとはまるで違う。そのかかる手間にアナログの醍醐味はある。
レコード一枚を突き詰めてみる。ジャズ系で言うなら東芝EMIのブルーノート版、それよりもブルーノートのセカンド・サードアルバム、それよりの初回発売オリジナル版のほうが音が良いと思う。クラシックで言うならデッカやコロンビア等のヨーロッパの1960年代のオリジナル版。それよりもっと良いと思えるのがステレオでなくてモノラル版。それよりさらに私が鮮度が高いと思えるのはHMVの蓄音機などで聴くSP版。そこまでいくと、確かにレンジは狭いし、新しい音楽ばかり聴いている人には古めかしい音に聴こえるだろう。だがしっかりした蓄音機で聴くSPの音は私は本当に素晴らしいと思う。その時代の空気感が古い音には確実に詰め込まれている。音楽性が高く、本当に人の声がする。楽器も本当にそこで鳴っているような味わいのある音がする。アナログを極めたいと考える人であれば、是非ともSPを聴いてもらいたいものだ。
古いものに学ぶことは多い。単純なアナログとCDの比較にしても、である。音楽を聴くことについてもっと簡便に、もっと鮮やかな音をと進化した結果のCD。だがときにアナログに向き合うことで、音を極めることの原点に立ち返ることができる。
アナログは音を出すためにいくつかの道具と手順が必要で、これら如何によって音が良くも悪くもなる。個性も出る。アーム・カートリッジ・イコライザーなどのハードの選択。オリジナル版を探し求めるソフトの選択。音を出すこと、選択したものを聴きわけることは、それに要した手間と時間に比例して、楽しくもあり、音に敏感にもなる。アナログにかけた手間と時間とその耳は、CDの再生にも生きてくる。何をいい音と感じ、どのようにその音を表現するのか。それがまさに私の言うところのオーディオの調律である。
私も実は少し前までそういった意味でCDよりアナログのほうが好きだった。音楽性もあると思っていた。

それを一変させたものがある。NT4000に真空管クロックを取り付けたものだ。このCDプレイヤーはアナログを再生させるのと同じくらい、場合によってはそれ以上に繊細で、奥の深いプレイヤーだ。このクロックはCDのデジタル臭さを消し去った。アナログのような温かみと生々しさが再生できる。音だけではない。このプレイヤーは手を加えることによりどこまでも進化をしていく。Upサンプラーや別電源をつけるといったオプションももちろん音を変化させる。NT4000の躯体の弱さはコストパフォーマンス故だが、これを克服するとさらに音の鮮やかさが増してくる。
そして言い忘れてならないのが、NT4000は真空管を使用したCDプレイヤーであるということだ。真空管の交換は自分の好みの音を追求する簡単な方法である。しかしこの“好みの音を出す真空管”を探すことは、当然ながら骨が折れる。
また、細かい音まで再現するこのプレイヤーは、昔のCDを改めて鑑賞する楽しさも持っている。久しく聴いてなかったCD、大量生産の廉価版のCD、それらのCDから今まで聴いたことのなかったこまかなディテールが聴こえてくるようになったのもNT4000のプレイヤーだからできることだ。

アナログとCD、どちらがどう優れているという議論は終わりがないし、意味もないと私は思う。大切なのはそれぞれをどこまで追求し納得のいく音を再生させることができるのか、それにむける情熱を持ち続けることができるのか、ではないだろうか。
当店の試聴室について
2008年 01月 18日 (金) 17:47 | 編集
AH!広島ショップは現在3つの試聴室を備えている。本格的な試聴をしたいと望まれるなら、一つ一つの部屋でゆっくり聴いてもらいたい。

一般のオーディオショップの試聴室は、ひとつの大きな部屋にいくつものスピーカー(以下SP)が混在している。そうした形に私は以前から疑問をもっていた。というのは音を出せばSP同士が干渉しあい、耳に届く音はそのSPのもつ本来の音と離れていると考えられるからだ。パッシブラジエーターというSPがあるが、これは複数のSPのうちアンプにつながっているのはひとつで、他のSPはアンプにつながっていなくても音がなる。これと同じ原理がひとつの部屋に複数のSPを置くことで生じてしまうのである。また、多くの人は自宅で音楽鑑賞をするわけであるから、できるだけそれに近い環境を作ることをめざしてもいる。様々なスペースの部屋にそれぞれひとつのSPを置き、各SP各アンプが色付けや干渉のない本来の音を出すことをめざし、試聴室のセッティングを行っている。

今までは私が考える最高の音を聴かせたいと切磋琢磨していたが、近頃そうしたやり方を改めるべきところもあるのではないかと思い始めた。解る人にわかって貰えればいいという考えは変えていく必要があると感じている。
一般のオーディオショップに比べると、というか、当店は一般のオーディオショップと簡単に比較できなくなっている気がするのだ。私がめざしている音が試聴者になかなか即座に理解が得られないこともよくある。38cmウーハーでないとゆったりとした低音は出ないと考えている人がいる。そういう人に低域のスピードの話をする。20㎝と38㎝のスピード感、20㎝のほうがスピードが速い、動きやすい、と話をしても理解されないことの方が圧倒的に多い。音の明瞭度や低域の量感の話はするが、低域のスピードや音に濁りの話にはならない。大きなボリュームで聴く人も多いが、大きい音で聴くことによる細部のごまかしに気付いておらず、小音量での聴きどころを知らない人も多い。
自分の音に自信がある人ほどこうした傾向は強く、私の考えに共感も得がたい。そういう人たちにもわかりやすいシステムを組むべきではないかと考えている。試聴者の持つ装置を半歩ないし一歩リードするようなシステムとはどうしたものか。わかりやすく実行しやすい音を示すことで、私の目指すものが少しでも理解されればうれしいと思うようになった。
そうは言うもののどう取り組むべきなのか。安価で大衆的なSPを組み合わせたり、まだまだ勉強の途中である。

また当店はさして来客店数も多くない。試聴は美味しいコーヒーでも飲みながら、時間をかけてじっくり聴いてもらいたい。ちょっと聴いただけではおそらくよくわからないと思う。聴き始めておよそ1時間も経てば当店の装置に耳が慣れてくる。すると音の判断ができるようになる。そうした間に音の判断のポイントや聴き方の説明を行う。そこが普通のオーディオショップと異なるところだと自負している。スピードの速さや遅さを理解してもらうことや、音どうしのにごりやよどみの存在、こうしたものをコントロール(すなわち私の考えるところのオーディオの調律)をしてこそ、純粋に音楽が楽しめるシステムができあがることを伝えていきたいのである。

当店は一般のオーディオショップとは違う。AH!の専門店であり、ベリヒテンを組み合わせた音の研究室でもある。AH!ブランドは文字通り常に驚きを提供するし、よりよい音の追求に前向きさとおおらかさをもっている。当店に試聴に来られるのに、試聴者が普段使っているケーブルや装置その他を持ち込んでもらってもかまわない。また当店で音の調律(セッティング)を勉強したいと来られるのも大いに歓迎する。そうした説明をするショップは今までほとんどなかったし、そうしたオーディオショップを私自身が欲していたのであるから。
ベリヒテンの成り立ちとその展開
2007年 11月 30日 (金) 23:46 | 編集
ベリヒテンが生まれたのはまったくの偶然と思いつきだった。
そもそもこの金属はオーディオとは全然縁のない産業で使われていた。ステンレスを基材にして複数の金属が混入する、硬度・強度を追及してつくられた合金だった。
「ただひたすら硬いから加工するのがすごく難しいんだ。」そんな愚痴にも似た製造者の言葉が、私の耳に残っていた。
これをオーディオのインシュレータとして使えないだろうか?
世の中にはチタンや石英そのほか様々な素材のインシュレータがある。硬いことを売りにしているものも中にはあった。だからというわけではないが、試作品として方形のインシュレータを作ってみることにした。
そしてこれが思いのほかオーディオの音を変化させたのだった。滲みが薄れ、音のつながりが良くなった。それまでもやもやとしていたものがすっきりと取り払われた、そんな感覚だった。その後試行錯誤を重ね、現在のようなネジ止めの形になっている。

装置の下においてこれだけ変化するのなら、ケーブルにも応用できないものか?
インシュレータとして使用していた円筒形のものの中にケーブルを通してみることにした。するとこれがまた音をより際立たせるほうに変化したのだ。そうしてケーブルスタビライザーは完成した。

この金属でなんとも不思議なのは、どんなに重ねて使っても音に金属のくせがのらないことだった。インシュレータとして下におき、底板をこの素材で作り、ケーブルに何本スタビライザーを通しても、音はますますクリアに繊細になっていった。それどころか皮肉にもその装置の、ケーブルの特長を際立たせる結果となってしまった。普通、金属には固有の音色がある。アルミの音、銅の音、その素材を使えば使うほど素材の音が音楽にのる。しかしベリヒテンにはほとんどくせがなかった。ベリヒテンをつけたケーブルを聞き比べると、ベリヒテンの音が聴こえるのではなく、ケーブルの音が聴こえた。アンプ、プレイヤーもまた然りだった。どんなにベリヒテンで固めてもベリヒテンの音にはならない。そのアンプの固有の音、プレイヤーの固有の音が冴え渡るのだ。
ベリヒテンを使うことで「音がなまった」という人も中にはいる。だがそれはベリヒテンのくせではない。装置のどこかに問題点があり、ベリヒテンによってそれが際立ったのだ。これがベリヒテンの大きな特徴のひとつだ。装置のくせを明確にしてしまうのだ。

これだけ音がクリアになるのなら、電源部分にも効果が期待できそうだ。そうした思いで作ったのがコンセントプレートだ。
もちろん私もウエスタンエレクトリックのような古いものから、最新鋭のものまで様々なノイズカットトランスを使用している。決して安くはないし効果もある。だがベリヒテンのコンセントプレートはそれらを超えて効果を発揮してくれた。さらに驚きなのは、ノイズカットトランスの出口側・入口側のどちらにつけても同様の効果があるということだった。ノイズカットトランスといえど、完全にノイズを消去しているとはいえないのではないだろうか。このことはもちろん私の所有するノイズカットトランスに限った話ではなく、多くのトランスに試した結果のことだ。ベリヒテンには磁場を消す能力があるのではないだろうか。ゆえにこれほど電源に効くのではなかろうか。

では果たしてなぜこの金属にそのような力があるのか。
正直なところ、私にもそのメカニズムはよくわかっていない。
あるとき県の工業試験場にベリヒテンを持ち込み、検査を行ってもらった。車のバッテリー部分にベリヒテンを装着し実験を行った結果、サーチライトは明るさを増し、電圧計の針が15から13Vに下がった。しかしこれだけだった。所詮町の片隅の小さなオーディオ屋。検証実験にそんなに資金を割り当てられるものではない。
しかし、ここから推察されるのは、優れた整流あるいは清流効果。そうした効果を期待して、私を含め、私の周りのオーディオマニアはいろいろなアイデアを出した。

確かめる術は自分たちの耳。幸い私の周りには音に対して優れた感性を持っている人間がそろっていた。
そしてベリヒテンを使い続けることで、知らず知らずに自分たちの音に対する感受性が鋭くなっていた。ベリヒテンは付帯なものを取り除き、本来の音を際立たせる。それ自身にくせはない。そうした音を聴き続けると、そのケーブルの、アンプの、プレイヤーの、スピーカーのそれ自身の音に近づくことができた。自ずと線一本、ツィータひとつの交換に敏感になることができた。
その中から、自分の好きな音を追求していくようになった。

今、ベリヒテンはルームチューニングや楽器の振動対策にも応用されつつある。
制振効果の応用として、チェロのエンドピンの製作依頼があった。楽器の調律師がベリヒテンについて人づてに聞いたようだった。私には思いもよらない、それでも納得のいく依頼だった。そのエンドピンは広島交響楽団のあるチェロリストから絶大な支持を得ることとなった。また音楽高校にあるピアノ(ベーゼンドルファー)のインシュレータとして使われてもいる。
自ら録音スタジオを造っているミュージシャンが録音用マイクスタンドやルームチューニングにベリヒテンを用いている。より自然でリアリティに満ちた音楽をとることができるという。
こうして、ベリヒテンは私の予想をはるかに超えた音楽の分野に広がろうとしている。

音の追求に終わりはない。敏感であればあるほど、細部が気にかかる。
「神は細部に宿る」というが、細かな変化に一喜一憂するほどに、ゴールの遠さも感じるのである。
オーディオマニアの音の聴き方
2007年 10月 30日 (火) 19:48 | 編集
オーディオから出てくる音について会話をしていると、何かしらの違和感を覚えることが多い。
私が感じる違和感は、あまり多くの人に賛同を得られることはないかも知れないが・・・。
そんな違和感のひとつ。

オーディオマニア100人が同じ音楽を聴いていても、それぞれは違う音を聴いている。流れてくる音はひとつでも、その音の判断基準は100種100通りだ。普段聴く音、それは聴くジャンルや装置、または環境により、その人の聴きどころが決まる。
 ときどき「やはりライブ会場の音はオーディオよりずっといい」というオーディオマニアがいる。確かにライブ会場には独特の雰囲気がある。演奏者の緊張、聴衆の興奮、両者の間の空気感というのは、なにものにも換えがたい感動を生むのはわかる。そうしたライブ、コンサートは私も大好きだ。
しかし、それと音の話は別である。楽器をニアフィールドで聴くのは結構しんどいものだ。我々は決してグランドピアノに頭を突っ込んで聞くことはない。
ライブ会場は反響音9割、生音1割。程度の悪いホールだとせいぜいそんなものである。ましてやマイクやスピーカを通して聴く音というと、どれほどが生の音といえようか。
 優れた調律師は演奏会場と演奏者に合わせて調律を行う。すると演奏者と調律師の意見が合わなくなることもある。演奏者と調律師が楽器を聴く立ち位置がそもそも違うのだ。楽器に寄り添って聴く演奏者と数メートル、数十メートル離れたところで聴く聴衆。届く音は異なる。
 そして音はマイクに拾われ、スピーカから拡声される。ましてやそれを録音、ということになるとマイクセッティングでその音はまったく変わってしまう。
 それらを鑑みて「生音が好き」といってもらいたいものだ。

音を聴くとき、自分の聴きたい音、聴きやすい音を聴いてしまう。低域を聴く人、高域を聴く人、このCDのこの曲のここの部分はどう聴こえるのか、そうやって装置を判断する人。
 当店にJBLの3WAYスピーカがある。D130・16Ω、スピード感がそれなりにあるウーハーなのだが、瞬間に聴くと中域のエネルギーが強いため、「もう少し低域がほしい」と言われる人もある。実のところそう言わせようと設定をしている。初めにそれを聴いてもらい、次に中域をカットする。すると「低域も出ているんですね」ということに気付く。そしてもう一度中域を復活させる。そうすると「低域もしっかり聴こえる」と言ってもらえる。もちろんヴォリュームも曲もまったく同じだ。
 これはどういうことだろう。おそらく頭の中で優先順位を決めているのだ。知らず知らずにそうやって出てくる音を判断している。だが、一度低い音に気がつけば、音を聴くことはできるのだ。
 自分の耳をニュートラルにすることは難しい。先入観とはいかないまでも聴くポイントのくせはある。自分の耳とはどこのポジションを中心に聴いているのか、それを自覚することはできるのではないだろうか。
 私にも音を聴く聴きどころがある。低域のスピード感、中域の厚み、伸びる高域、そうした聴きどころを理解してもらえる人とは自ずと会話が弾んでくる。

 「オーディオの音に敏感」と自負する人に問うてみたい。あなたの思うオーディオの音とはなんですか。
NT4000のトランス
2007年 10月 07日 (日) 21:52 | 編集
AH !の誇るCDプレイヤー Njoe Tjoeb 4000 (以下NT4000)がもうしばらくすると販売中止となる。改めてこのCDプレイヤーを眺めるとこの価格にしては考えられないようなパーツや理論が盛りだくさんに詰め込まれている。たとえば真空管構成。DAC部とアナログ回路をカスタム設計。他社製品の真空管CDプレイヤーが出力バッファー段に対しのみ真空管を利用しているのに対し、NT4000は2本の双三極管を使用し、アナログステージはすべて真空管回路となっている。数々のグレードアップオプションもまた、よりリアリティを追求するに相応しい理論と性能を兼ね備えている。そして当店のベリヒテン(当店が誇る制振・表現力増大の特殊金属)もNT4000の音の表現力に力を発揮する。
当店のお客様も、ステューダA730や最新の国産CDプレイヤーと比較してもNT4000に軍配を上げている。
だがこのNT4000は全世界で残り数百台といわれている。欧州ではすでに販売中止、現在米国と日本のみの販売となっている。
そうしたNT4000であるが、驚くべきことに、発売中止になったにも関らずCDプレイヤーのレベルアップが図られる。それが今月末~来月より発売されるのが、真空管クロック専用の別電源である。
 (真空管でクロックを発振するユニット。真空管のリニアリティと低ノイズ特性で極めてクリーンで正確な波形が得られ、桁違いにジッターを改善するもの)
今当店でこの別電源の取り付け、試聴を行っている。結果としてはさらに音が生々しくなり、細かなディテールを表現するようになった。真空管クロックの一番の特長であるしまった低音とエネルギー感の放出が増大した。おそらくやわなスピーカーではこの明瞭さとエネルギーが完全に表現できないであろう。

 別電源トランスをきっかけに、当店ではひとつだけサンプルでこの電源トランスを上下にはさんでカバーするものをベリヒテンで作成した。ベリヒテンが電源に効果が高いのは、多くの人から評価を得ていることもあり、このカバーについてもある程度の効果は予想していた。だが、その変化は予想をはるかに超えていた。
このベリヒテンの有無を比較試聴するため、もともとある電源トランスへのベリヒテンの装着を試みた。
サンプルを使用したNT4000は内部をベリヒテンでチューニングしており、音のリアリティや滑らかさは充分に表現できていた。それが電源トランスをベリヒテンでカバーすることでさらに音の雑味が消失し、さらなる繊細で濃密なディテールを再現できるようになったのだ。これにはアップサンプラーをつけていなかったが、アップサンプラー装着と同様の細部にわたった表現力を得ることができた。まだたった一つしかない電源トランス用のカバーである。これを真空管クロック専用トランスにもダブルで取り付けるとどこまで明瞭度が上がるのか。工場をせかす日々が続いている。

AH!が音の追求に余念がないのと同様、当店もベリヒテンを用いたよりナチュラルで繊細な音の表現に試行錯誤を繰り返す日々が続く
ナチュラルな音
2007年 09月 05日 (水) 14:29 | 編集
現代のスピーカ(以下SP)はレンジ感が広くゆったりと鳴るものが主流を占めている。
だがそうした装置は高域が甘くなるきらいがあって、そのため高域のレベルを上げている。すなはち、低域を遅くして高域を速くする。また、スーパーツィータを足して高域を足してゆく。すると高域の明瞭度が上がる。そして現代のアンプ、プレイヤー、ケーブルもそういったSPにあわせたエネルギーやバランスのとり方を行っている。

当店にソナスファベールのconcertinoという小型SPがある。このような最近のSPは低域をゆっくり出すことで量感を持たせている。またSPやツィータの素材も量感を持たせるものを選択している。
現代のSPは20㎝程度の小型のSPを2個程度並べて構成されているものが多い。そうしたものはポンとおいただけでは低域は出にくい。それなりの調整が必要で、調整を行えばそこそこ音は出てくる。しかし、昔のものに比べるとスピードのない低域である。小さなSPに量感やエネルギー感をもたせるために、高域と低域のスピードをずらすことをしている。だがそうなるとスピードのばらつきによる音の不安定さも耳につきはじめる。
最近のB&Wなども、機種を問わず、高域は強くスピードがあるが、低域はもたついている傾向がある。

そもそも、なぜ海外でこのような上下のスピードにばらつきのあるSPが評価されるのか私にはよくわからなかった。これはベリヒテンを開発し使用し始めて初めてわかったことだ。手前味噌ながら、当店のベリヒテンをかますと、不思議に上下のスピードがあってくるのだ。スピードがあうというより、短所として聴こえていたスピードのばらつきが、量感を持たせるための長所として耳に届きだすのである。
上下のバランスが整いだしたSPからは当然いい音が出始めた。私の中で評価の低かったB&Wも、ベリヒテンを使うことでなかなかどうしてよいSPであるとわかるのであった。

おそらく、日本の気候風土や家屋の設計はオーディオをそのまま鳴らすには不向きな環境なのであろう。木造、湿気、電圧の違い。部屋のつくりは?壁材は?敷物は?その室内はオーディオに付帯な音のつく環境に満ちてはいないだろうか。
多くのオーディオマニアが付帯な音のついたオーディオを聴いているのではないかと私は懸念する。その装置の音質と付帯音のある音質では根本的に違う音だ。それをわからずに聴いているオーディオマニアはあまりに多い。
付帯なものを取り除く努力をしてほしい。

では、付帯な音のないナチュラルな音はどういう音かというと、とても難しい。 ただ、AH!もベリヒテンもナチュラルさをとても大切にした装置だし、グッズである。

それぞれの装置にそれぞれの個性がある。その個性を大切にしているか。そもそもその装置の本来の音を聴き分けているか。調整グッズは世の中にゴマンとある。そしてそのグッズにも色や個性がある。
ナチュラルな装置は調整をしてゆけばゆくほど、臨場感は増す。音楽にリアリティがでてくる。音でなく、音楽に浸ることができるものだ。
ナチュラルなグッズは足せば足すほど静けさが増す。音の癖が取れてゆく。
AH!やベリヒテンはそれを実現できている。

足すほどに音の濁るようなグッズはナチュラルとは対極にあると私は考える。

昔も今もナチュラルな音を求めるのがハイエンドであると私は考える。
しかし、どうも最近変わってきている。個性的な音が増えている。
付帯音を前提として、それを力まかせにクリアしようとしている。そんなアンプやケーブルが増えている。
暗闇を照らすサーチライトのごとく、付帯音に満ちた装置をエネルギーと解析度だけでくっきりはっきりさせるような・・・・・。
独りよがりのオーディオにならないために
2007年 08月 17日 (金) 13:55 | 編集
ひとりで音の調整をつめていると、一体何をしているのかわからなくなることがある。
もう少し高域を出そうとしてチューニングをするうちに低域に物足りなさを感じ、そうこうすると気がつけば全体のバランスを欠いてしまっているとか。音の明瞭度が上がった(ここのシンバルがよく聴こえるとか)などの小さな変化には敏感だが、その変化がいいものなのか悪いものなのか、もとい、好きな変化か嫌いな変化か、判断つかなくなってしまっているとか。

音を聴き取るというのは結局は主観であり、自分が聴いて感じることがすべてである。そういった意味では一人で音を極めて、一人でその音に満足することも間違いとはいえない。自分の耳に届くものが心地よければいいのだから。
だが、そんな人はほとんどいないだろう。私の知る限りオーディオマニアとは自己顕示欲が強く探究心も旺盛なものだ。

私にも幾人かのオーディオ仲間がいる。新しい装置を入れ、調律を行っては、聴きに来いと電話を入れる。彼らとともに音を語りまた新たな調律を開始する。自分以外の誰かに装置の音を聴いてもらうことで客観的な判断が加わる。自分の音の方向性を再認識することができるのだ。
私もまたオーディオ仲間のもとを訪問する。彼らの装置やその調律の能力に敬意を払う。(私の友人は悔しいほどにいい音を出している)

当店を訪れる人の意見はおおまかに二分される。もう少しこうなるといい、といったふうに対策めいたことを言う人。この装置ではこう聴こえる、と出てくる音の特性を聴こうとする人。前者のようなあら探し的なことを言う人ほど、そういった人の家を訪れるとたいていバランスの悪い音の鳴り方をしている。自分のやり方が一番、と思っているのかそうでないのか。少なくとも、様々な装置や人から学ぼうという姿勢が感じられない。
自分の出す音はもっと良くなる。当たり前だが向上心と探究心と他人の話を受け入れる謙虚さが大切なのだと思う。

極めつけは素人の意見だ。
高域だの低域だの位相だのそんなことは知りもしない人の感想。これほど一喜一憂させられるものもない。素直に「いい音ですね」といわれることがなによりうれしい。
家人の意見は辛辣だ。遠慮も容赦も専門用語もない。「きつい」「うるさい」ばっさり切られる。悔しくもなぜだか従わざるを得ない。

こうして私が装置を聴きに行ったり聴かせたりするのはなによりそれが楽しいからであるが、何かしらの客観的な判断を求めたいからである。
いろいろな装置に耳を傾けいろいろな音を知り、意見をたたかわせ、更なるいい音を求める。
同じ音を仲間と聴き、どのように聴こえるのかを語り合う。自らの知識と技術を総動員するなんともスリリングなディスカッションである。
オーディオ装置は楽器である
2007年 07月 12日 (木) 10:30 | 編集
オーディオ装置は楽器である

オーディオは所詮擬似音、だからこそ大切なものがあると考える。オーディオを楽しく、素晴らしく聴くためにいろいろな方向から突き詰めていたら、ふと自分の中で思ったことがある。
楽器をスピーカーがわりにして音を楽しんでいるオーディオ評論家がいた。演奏家たちは、自分の楽器にオーディオ装置で音を聴かせると楽器の音が変化する、と言っていた。それならばオーディオ装置を楽器とみてはどうだろうか。そうすると調律が大切であるのが明確となる。

オーディオの個性、特徴。アンプ、プレイヤー、ケーブル類の組み合わせ。それらをひとつの楽器としてその鳴り方を考える。擬似音とか、にせものという話ではなくなる。演奏会場で聴くリアルな音を求めるという話でもない。それがオーディオのある意味での楽しみ方ではないか。そこには高域がどう低域がどうのと言った話でなく、どう音楽を聴きたいか、どう音楽を鳴らしたいか、自分が演奏家としてその楽器(オーディオ)をどう演奏するか、そうしたことに楽しみを見出すことができるのもオーディオである。
オーディオ装置を聴いて「いい音だ」とするのではなく、自分の聴きたいソフトを聴いて「いい曲だ」とする。その装置から出る音を判断するのは音でなく曲。判断の視点を変える。一音一音を聴きわけるのではなく、曲全体のバランスを聴く。それがオーディオを楽器と捉え、オーディオを調律するスタンスである。

 音楽を聴くというより、音を聴くというマニアはメーカーも含めあまりに多い。それを象徴するのがスーパーツィーターやスーパーウーハーの存在だ。音の明瞭度を上げるため一音一音を固めている。足りない音をそれらで補うことや、にじみをとるため高域特性を上げることが、いい音になるかというと、決してそうではない。音量を下げると音はやせるということは、あまりにも中域をないがしろにしているからだ。 
数値の話を好む人がいる。周波数特性、歪率特性などなど。それらは時としてその装置を表す誰に対しても明確な指標であることは私も否定はしない。しかしあまりに数値にとらわれすぎて全体がないがしろになっていないだろうか。音のよしあしの判断を数値に頼ると見えなくなるものがたくさん出てくる。
数値の話をする人、高域低域の話をする人というのは、得てして長い時間音楽を聴こうとしない。一曲を全部聴かずその一部を聴いてその装置を判断する。それはとても音楽を楽しむという姿勢ではない。だが、これは私もよく家人に指摘され、反省するところではある。

装置をどういう音で鳴らしたいか。聴きたいソフトの演奏者の音をどう表現したいか。音のいい録音ソフトをかけることもひとつの手だが、録音は悪いが名演奏といわれるソフトをストレスなく聴けるように調律することは、装置の所有者の耳だめし、腕だめしともいえる。

楽器の調律は高低域を強調することではない。バランスのとれたきれいな音色を出すことだ。いい楽器はしっかりした強い音も出るが、ストレスのない、きれいな響きが出る。それをオーディオにも求めたい。
喫茶店スタート
2007年 06月 03日 (日) 22:48 | 編集
いい音楽と美味しいコーヒーのある喫茶店、ゆったりした時間と空間のある居場所、そういう店を作ろうと考えた。
世の中にあるジャズ喫茶やクラシッククラシックした店は嫌いだった。
いい音で音楽が聴ける、コーヒーや紅茶の豊かな香りのする、忙中閑有の気分に鳴れる、そんな喫茶店。

もともとコーヒー好きだ。美味しいコーヒーの店と聞くと足を運ぶ。自分でもコーヒーを淹れる。豆を選ぶ。豆を挽く。淹れ方もいろいろ試み体得した。サイフォンも水出し、布ドリップ…。そして豆を自分で焙煎し始めた。

喫茶店をプロデュースすることとなり、試行錯誤の日々が始まる。
まず美味しいコーヒー。苦すぎず酸っぱすぎず、香り高い飲みやすいコーヒーを選択する。もちろんコストパフォーマンスも念頭に置く。
音は誰が聴いてもいい音のセッティングにしたかった。総額50万円程度のシステムで、家庭でそのままもって帰ってその音を再現できそうなもの。10坪程度の小さな部屋だ。出したい音はスピードが速く、切れがよくて、温かみのある音。芯があるけど部屋に広がる音。

初めは「物足りないね」と言われた。コーヒーも音も。やわらかいものを出しつつ深みと味わいを出すにはどうすればいいのだろうか。

コーヒーの場合、大型の焙煎機より小型のもののほうが香りがいい。しかし深みが足りない。
コーヒーに対する結論。
小型の焙煎機のほうが均一で香りの良い豆が仕上がる。どうしてもこの焙煎機を使いたい。しかし、深く煎りすぎると下手をするとこげた豆になってしまう。時々、深みと苦味を勘違いしている自家焙煎コーヒー屋に出くわす。いわゆる深煎りコーヒー。苦みばしっていいという人もいるが、言語道断、無知の知を知れといったところ。焼きすぎた肉が硬くてまずいのと一緒だ。
そこで調整したのが焙煎の温度。低温で長時間煎ることで香りと深みが増した。しっかり煎ることで日にちを経過しても酸味が増すのを防いでもいる。

豆は納得いくものができた。ではオーディオは?

オーディオのほうはまだ答えが出ない。
20㎝クラスのスピーカーを使うとスピードは速いが38㎝に比べ量感が足りない。世の中は米英製のスピーカーがブームだが、アンプとCDプレイヤーはもちろんAH!でオランダ製のためスピーカーも欧州製にすることにした。いろいろ考え、スピーカーはウーハーは伊製ジェンセン、ツィーターは仏製ジェンセンの2WAYに、エンクロージャーは1950年代の独製を選択した。ネットワークを通さない素の音がほしかった。透明感とスピードを出すためにはネットワークは不要である。私自身はフルレンジ一発の音が好きだが、ロックやポピュラーにも対応できるように、小型ではあるが広がりとエネルギーを出すため2WAYにした。
コンデンサー選びには苦労した。ウェスタンのオイルコンデンサーなど10種類程度の中から選択した。センターにリスニングポイントを取らなくていいように、左右どこの位置からでも音楽が広がって聞こえるためにはスピーカーのセッティング位置とコンデンサーの操作が肝要であった。
欧州製でまとめるとクラシックはよくなじんだ。ジャズやロックに合うようにベリヒテンを各所に使用してエネルギーとスピードをつけた。

ロック好きからはある一定の評価を受けるまでになった。しかし、私にはまだ物足りない。今後、低音のしまりと、量感・エネルギー感をもう少し出していく工夫が必要と考えている。

私のプロデュースした“Music Café BOZ”は広島市安芸区矢野西、JR矢野駅前にある。営業時間は12時から21時、定休日は火曜。
いまのところ、おかげさまで女性の方が多く来店され、「美味しいコーヒーです」「とてもくつろげる空間です」と好評をいただいている。
音のツボ
2007年 05月 19日 (土) 10:27 | 編集
オーディオをやっている人なら誰しもがいい音で聴きたいと思う。
いい音を出すには手段がいる。当然いい装置を買う。いいセッティングをする。
だが、大事なことは、いい装置、いいセッティングとは何かということを常に追求する姿勢、向学心である。
一般的にはオーディオショップへ行って、そこで自分の好みの音を見つける。しかし、オーディオショップでの音が自宅でそのまま鳴るかというとそういうものでもない。
また、いい音を見つけるというよりも、自分の好きな音を見つけるほうがいい音への近道かもしれない。

たとえば当店のお客様で、プロローグ1(プリメインアンプ)とNT4000(CDプレイヤー)を購入した方がいる。
初めに電話があったとき、その方はプロローグ1よりもはるかに高いアンプをすでにもっていた。きけばスピーカーも良いものである。ケーブルも有名メーカーのものだ。
そんな人が、どういうわけか私の口車に乗り、プロローグ1とNT4000を買おうという話になった。
そうして、そのシステムから聴こえてきたのは、今まで聴こえてこなかった充実した音。
そして、ケーブルもAH!のものに換えた。換えてすぐは物足りなさを感じたという。そこでスピーカーのセッティングを変えた。するとそれが素晴らしい音に変わったという。
以前使用していたケーブルは強い音だったため、スピーカーを内向きにしていた。それを平面に戻したのだ。するとスピーカーの横や後ろからも音が聴こえはじめ、サウンドステージの広がりをみせた。音のエネルギーや強さもしっかりとわかるようになった。
この例は一つのオーディオの答えである。
ケーブルの交換、そこから聴き取る音の変化、どうしてそういう音が聴こえるのか、どうすればよりよい音に変わるのかを判断して対処をする。

装置をぽんと聴きにいくと、その装置のどこがおかしくて、それにどう対処すればいいのかが瞬時に解る人がいる。
セッティング(リスニングの環境も含め)を整え、装置本来の音を導き出す。それでも音に物足りなさを覚えるならケーブル類やひいては装置の交換に至る。
それはすべてその人の耳のなせる業である。
いいセッティングやいい調律はたくさんの音を聴くことでしか学べない。たくさんの音の中からいい音をみつけていく。そしてそれを自分でも作り上げていく。

私の考えるいい音のポジションとは、中域が厚い、上下がなくても聴ける音、スピードが速い、センターに調整してあっても左右によってもバランスがあまり変わらず充分聴ける、隣の部屋でもいい音に聴こえる、といったところだ。これを目指して自宅の調律をする。
それでも、どれだけ調整をしても、もっといい音になるのではないかと試行錯誤の日々である。
小音量のリアリティ その3
2007年 04月 30日 (月) 22:56 | 編集
小音量でいい音にするためにはスピーカーを充分に駆動させることである。
そしてそのためにはアンプとプレイヤーが必要。いいアンプといいプレイヤーを選べば、いい音でなる。
 いいアンプとは、中域が厚く、解像力があり、音楽性のあるアンプ。音楽性を得ようとするならサウンドステージの明確化と高域のエネルギー・低域のスピードが要求される。
 いいプレイヤーについて、よく情報量の話を聞く。それも必要ではあるが、忘れてならないのが低域のしまり、にじみのない高域だ。これらを出せるのがいいプレイヤーである。

そして、それらにもまして重要なのが、装置本来の音を引き出すためのノウハウと、その装置の使い手の技術力である。
これを教えてくれるオーディオショップはほとんどない。言い換えるなら、オーディオの調律ということを真剣に取り組む人が少ないということである。 装置を置けば音が出るというのは大きな間違いである。 どんなに有名な名楽器でも調律しなければまともに鳴らない。これは楽器を演奏する人にとってはしごく当たり前なことだ。だが、日本におけるオーディオマニアはなかなかそこに着目できない。

オーディオの調律とは一体どのようなものか。

音をよくするためのグッズというものはいろいろと販売されている。それを使って音の変化を感じることはできる。しかし “良くなった”のか“悪くなった”のか判断つきかねているオーディオマニアを目にするものもまた現実である。どんなによいグッズでも、使用の目的と方法が適切でなければ、音を小さくしたときに、まともに鳴らない。
 
あるオーディオグッズがある。そのグッズを多用するほどに、必要な音が現存し、くせがなくなるのなら、それは装置本来の音であり、グッズの個性は消える。

ヴォリュームを下げていくと、低域の音、高域の音というものは聞こえにくくなる。これもまたしごく当たり前の話。
たとえ高域・低域が聞こえなくとも物足りなくなく、満足いく音というのがいい音である。それは中域がしっかり出ているからである。

なぜこのように中域に固執するのか。それは中域こそが音楽の中心であるからだ。
以下はAH!NT4000の評価記事の引用である


疑う余地のなく、人を引き付ける魅力はミッドレンジ。(中略)
それはまさに楽器の肉体の部分であるからである。オーケストラの平均スペクトラムは400~500Hzがピーク。それから周波数が高くなるにつれて減少する。2.5KHz~3Khzではピーク時の20Db以下。もちろんローミッドレンジは基本音として、そして第一倍音として豊富である。特に262Hz~330Hz(C4~E4)のレンジはすべてのボイスの共通周波数。 私の辞書では、もし機器がミッドレンジが正確でないなら、周波数の伸び、イメージング、その他すべて非常に少ないものとなる。ミッドレンジこそがものごとのすべての心臓部である。

 
 小音量にすることで、高低域の聞こえにくくし、中域を浮かび上がらせる。たとえ高低域の音がなかろうとも音楽の中心である中域が充分に音がでているのであれば、なんら物足りなくはない。小音量にしたときそういった満足感が得られるのなら、その装置はバランスの取れたいい装置といえる。

音の満足感を得るために、スーパーツィータやスーパーウーハをつける人がいる。小音量で聴いたときそれらはあまり意味を成さなくなる。音楽のリアリティは中域にあり、中域の満足感こそが音楽を楽しむ根源ともいえる。

小音量のリアリティとはオーディオを調律する上でのキーワードである。

小音量のリアリティ その2
2007年 03月 23日 (金) 20:58 | 編集
ごく当たり前のことであるが、オーディオはスピーカ(以下Sp)を駆動して音を出す。
Spを駆動するためにベストな状態を整えるのが基本的にいい音を出すやり方と言える。

小さな音というのはすなわちSpにあまりエネルギーを与えないことである。ほんの少しのエネルギーをもっていい音を出すには、Spをしっかりと駆動させることに結びつく。

大きな音で聴くと、それなりの量感や臨場感を感じることができる。それを小さな音で聴いたとき、果たして同様の臨場感、サウンドステージを感じることができるのであろうか。

昔のSp を小音量で鳴らしている人が多いのは、昔のSpは小音量対応型であるためだ。
入力W数が5Wで限界など、エネルギーを与えられないこともある。また軽いコーン紙で軽く音が出る。スピードも速い。そのため低音は量感不足に捉える人もいる。

それに対し現代のSpは量感を出すためにスピードを遅く設計されている。能率が悪く、小さい音では反応の鈍いSpになっている。入力W数が70~80Wと大きくなっているのもそのためで、そもそも大音量で聴くようになっている。ゆえに小音量ではにじみやすいしぼけやすくなる。
穿った言い方をするならば、ボリュームを上げることで細かいディテールやサウンドステージの広がりを補っているということになる。

それを小さな音=小さなエネルギーでもSpをしっかり駆動させ、大音量と変わらないサウンドステージを得ることがいいシステム、いいセッティングであるといえる。
小音量のリアリティを追求することはいい音の追求である。
小音量のリアリティ
2007年 03月 07日 (水) 14:50 | 編集
うちに試聴に来るお客様には、大きいボリュームで聴く人もいれば、微かな音で聴く人もいる。
普段聞いている音量は千差万別であることは当然であるが、大雑把に二分できることも否めない。
大きな音量で聴くと、曲に迫力とエネルギーがある。小さい音で聴くとエネルギーに欠けるかというと、決してそのようなことはない。小さな音量で聴いたときに満足感が得られるようにするには、調律のされたそれなりの装置が必要である。

小音量では音に物足りなさを感じ、ついついボリュームを上げる。
大音量に包まれてその装置の奏でる低音の響き、高音の伸び、微細な音を存分に楽しむ。
だが、音と装置にエネルギーとパワーがあればボリュームを下げても充分に楽しる。むしろ積極的にボリュームを下げたくなってくる。小さな音でも細かな表情を伝えてくれる装置というものは、その装置を所有するものの自尊心をくすぐる。

深夜、人々が寝静まり、外も暗くひっそりとしている。そうした静けさの中、小さな音でオーディオを鳴らす。その音は一音一音がリアル。
闇と静寂がもたらす至福の時間。そこに大きな音は似合わない。
小さな音の力強さと豊かさに酔い、それを奏でる自身の装置に酔う。

では、そんな小音量でのリアリティとはなんだろうか。
AH!の国内外の評価
2007年 02月 14日 (水) 15:55 | 編集
1月末に発売された管球王国において、プロローグ3の批評をいただいた。
一読するに、比較的よい評価を頂き、うれしい限りである。
そして、1月に米国ラスベガスで行われたオーディオショウではAH!のアンプ、ダイアローグとミスティルが展示され、好評を博した。
「低価格で高性能」、両者に共通するAH!に対する評価である。金額を出せばいいシステムはゴマンとあるのだろう。AH!がすごいのはなんといっても「これくらいの価格のものが、こんなにも素晴らしい音をだすのか」という驚きにある。我がショップではプロローグl~6まで、またダイアローグを試聴できるようにしている。国内外から高い評価を受けたこれらのアンプをぜひ試聴していただきたい。
今までAH!は国内であまり宣伝活動を行っていなかったため日本での知名度が低いが、アメリカのハイエンド誌「The Absolute Sound」においてEditor’s Choice2005・2006と二年連続の受賞をしている。 この雑誌は世界でもトップレベルのオーディオ雑誌であり、この賞はオーディオにおけるグラミー賞のようなものである。この連続受賞は大変名誉なことである。それくらいAH!は世界で認められたオーディオ機器なのである。
われこそはオーディオマニアだ、という人にこそ聴いて貰いたい。おそらく今まで聴いた事のないような音を聴くことができるはずだ。

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