AH!広島ショップ
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音と響きについて
2008年 11月 01日 (土) 00:18 | 編集
オーディオが好きなひとは音楽好きでもあってほしいと思うが、どうしたことか音好きなひとが多い。

最近わたしがよく掲示板でも言っていることだが、TON(トーン、音)とKLANG(クラング、響き)を区別し聴くことが大切だ。
オーディオ装置の性能を良くすることと、響きをリアルにするのとは似ているようで少し違う。
性能が上がれば音がよくなると言い切ることはできない。
私の言うKLANG(響き)がきれいに聴こえるものではない。
KLANGについて的確に理解し、KLANGを聴くことができる装置を持ち、またKLANGをききわけることができる人がどれほどいるのであろうか。
楽器を演奏する人もしかり。
多くの演奏家とも話をする機会があるが、KLANGを理解する人は少ないと感じる。
言い換えると、響き(KLANG)こそが音楽の命、と考える人が少ない、と思うのだ。


現在の日本のオーディオの表現は足し算が多いと思う。
高域を足せば!
低域を足せば!
その足し方には間違いがあるのではないだろうか?
足すという発想そのものが間違いではないだろうか?
音の線を細くすることが、鋭さや繊細さを出すと思っていないだろうか?
そしてそもそも、自分の出している音に疑問を持つ人がどれほどいるだろうか?
日本のオーディオの姿に多くの疑問を抱き、そこからひとつひとつ私なりの答えを出してきた。

にじんだ味付けの音を聴かれている人に、響きの話をしてもなかなか理解されない。
高域が明瞭なことと、にじみのあることが聞き分けられないと、わからないことだろう。
当店に来店いただくお客様に、簡単な聴きくらべをしてもらうことがよくある。
この音の変化に驚き、感動するかどうかは、その人の求める音楽に比例すると思ってしまう。
装置を換えて音のレベルを上げるのはわかりやすいし、楽しい。しかし、現在使っている装置のレベルアップを試みることは、高い感性と技術力が必要となる。こと、音楽性をあげようとするのなら、「音が変わった」と捉えるのでなく、どのように変化をしたのかを感じとることが大切なのではないか。
これはなかなか文章にして伝えるのも難しいのだが・・・。
それは決して足し算的な変わり方では無意味だ。
むしろ引き算、要らないものを一つ一つ剥ぎ取る作業に似る。
「細かな音は聞き取れるようになったし、明瞭度も上がった」とするのではなく、「静かになり、音楽に深さが出て、サウンドステージがリアルに表現された」と聴きとれたら本物だ。
響きがきれいになると、最初は低域を物足りなく感じる人が多い。それは高域のにじみによって生じた低域のよどみが取り払われたことによる。「高域のピーク」というにじみ、「量感」という遅いスピードの低域。音をきれいに響かせるということはそうした「音の味付け」を取り払うことだ。本来の音を味わうことだ。すなわち、純粋に音楽を楽しむということだ。
だが、「明瞭な高域」や「重量感のある低域」を美しい音、臨場感のある音、という人も多い。私はそれを残念に感じる。オーディオの基本はTON(音)とKLANG(響き)を区別して聴き、KLANG(響き)を楽しむものだと考えるからだ。

「ドンシャリの音は好きではない」という人は多い。
私が「響きが大切ですよ」というのに反論しての発言であろう。
だが、そうした人も「柔らかく聴こえるドンシャリの音」を聴いていたりする。高域にピークがあっても、にじんでいると柔らかく聴こえる。そうした人の所有するCDはやはり高域に癖のあるものが多く、当店の装置で聴くとCDのノイズが気になることになる。それは大体において録音に原因があるのだが、当店の装置のせいにされることは少なくない。そうした人ほど自身の装置に自信がある。実のところ付帯な音にまみれているのだが、そのノイズを聴きわけられず、にじんだ音を柔らかい音と勘違いしてるとは夢にも思わないのだ。
本物を理解するには、それなりの経験(使い方)と自由度と発想力が必要だ。ある意味無駄な努力、まわり道もいるだろう。そしてそれ以上に大切なのは素直な心だ。
新たな発見に感動する心で、耳の痛い話には真剣に向き合う気持ちだ。(もちろん誹謗中傷は別である)

このごろドイツビンテージスピーカーをお薦めしている。というのもこれらは自宅で音楽を聴くのに大変適したスピーカーだと思うからだ。
けれども、私自身は馬鹿でかいホーンスピーカーなども所有していて、業務用が民生用より良い音がすると信じていたバカである。
それをいとも簡単にくつがえしてくれたのがドイツビンテージスピーカーだった。
シーメンスやテレフンケンの業務用がクラングフィルムであるが、ある部分においてはテレフンケンが1番優れていたりする。
しかし、業務用を鳴らすのはそれなりの設備、ノウハウ、スペースと難問が出てくる。こうした難問を全てクリアーしてスピーカーを鳴らしきる人はそう多くはいない。
名器を所有していて、音もそれなりに素晴らしいが、音楽が鳴らない、響きが聴こえない音を聴くことが多いのも正直なところ。
そうしたときに帰宅時に聴くカーステレオの音に救われる気持ちになることもある。

自慢や見栄、ステータスシンボル的な面もオーディオにはある。しかしやはりオーディオは、良い音を聴く道具である
今日、世界が絶賛し認めたものと、日本での評価の違いは一体何か?
もしそれが自宅で鳴らなければ、それはなぜか?
こうしたことを真剣に考えることこそが、どんな名器を手に入れることよりも、大きな進歩になると考えてほしい。当然AH!にしてもである。鳴らないのと鳴らしきれてないのとは大きな違いだ。
傲慢かもしれないが、心を割って話すことができれば、音楽の好き嫌いはあれども、何が大切かは理解しあえると思う。ただしそれにはプライドや見栄を捨てるべきであると、私は日ごろから自問自答を繰り返す。良い悪いという判断はなるべく避け、なぜこの音になるのかを考える。そしてそれが、どうすればどのように変わるのかを探していく。その繰り返しこそが面白いのだ。
私自身、人との対話において、その人と考え方が違うと話すことを躊躇したり、止めてしまうことも多々ある。おおよそ私の意見は、「考え方、視野を広くして下さい」ということに尽きるのだが、ともするとそうした話はプライドを傷つけることになることがあるので。
プライドの高い人ほど、素晴らしい情熱をもっているのに。
音は人なりである。

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NT4000
2008年 07月 09日 (水) 10:35 | 編集
プロローグ8(以下PL8)の発売の後、影の薄くなってしまったNT4000ではあるが、これは深い可能性と能力を秘めたCDプレイヤーであるといえる。PL8とは違った楽しみを持っているともいえるし、ベリヒテンでNT4000をフルチューンしたならば、ノーマルのPL8では出せないポテンシャルを持っている。
それはアナログターンテーブル的な面白さであり、バージョンアップをするごとに音に劇的な変化をもたらす面白さであり、すなわちかなりいろいろと遊べるCDプレイヤーなのである。
皆様の考えるバージョンアップとは真空管クロック、アップサンプラーといったところだろうが、当店のお勧めはやはりなんと言ってもベリヒテンによるバージョンアップだ。簡単で低コストでしかも効果は絶大である。
まずは電源カバー。電源部分にベリヒテンが極めて効果的なのはもう何度も繰り返して述べている。音の変化としては、滲みが少なくなり静けさをもたらすものだ。そしてアップサンプラー以上に細かなディテールを聞くことができるようになる。
続いて、CDトレー周囲を固める3点セット。これはディスクに効果的に作用すると思われる。(なんともベリヒテンは製作者自身にもどういう理由でそうした作用をするのかわからないのも難点ではあるが) このセットはやや大袈裟ながらPL8のようにエネルギーがみなぎり、中域の厚みを増すことができる。
これらの製品は試行錯誤をかさね、ようやくHPに上げるに至ったものたちである。
当然の如く、真空管クロック・アップサンプラーを付けているのであれば、その効果はさらに倍加することはうけあいだ。
そして、NT4000の問題点のひとつであるボディ剛性をベリヒテンの底板やインシュレーター、カバーで補ったのなら、それはまったく別物のCDプレイヤーとなる。細かな音の表現とサウンドステージの再現を存分に聴かせてくれる。
こうしてベリヒテンでいくつかの弱点を補った後に真空管クロックやアップサンプラー、クロック用別電源をセットするのなら、これらの変化はより劇的で素晴らしいものとして聴くことが可能となる。

だがこれで終わりではない。ここからは音の楽しみ。
NT4000は真空管ドライブだ。この真空管E88CCを差し替えて楽しむことができる。この真空管の違いでアナログのカートリッジ交換のような遊びができる。
柔らかくウォームに浸りたいのならば、ムラードのE288CC
エネルギッシュで情熱的に芯のある音で聴きたいのならば、テレフンケンE88CC
静かで深く清らかで透明な音を求めるのならば、フィリップスE288CC
気品があり格調高くいきたいのであるなら、ブライマーE88CCかムラードE88CC
他にもまだまだ沢山個性的で音楽性の豊かな真空管はある。こうした遊びはPL8にはできないことで、そうした意味からもこのNT4000には無限の可能性があるといえるのだ。

AH!のアンプにはプロローグ1~7・ダイアローグ1,2・ミスティル1,2と発売されている。そしてこれからも続くわけである。だが、上位機種を望む前に、その装置の本来の音を出すことができているかを見直すことが重要といえる。
ミスティルやプロローグ3/6・3/7でもプロローグ1の音は出ない。
いや、プロローグ1でしか出せない音がある。
時々私もプロローグ1を聴く。するとシンプルで飾りがない、けれどもしなやかで優美な音に改めて驚かされ、聴き入る。スピードこそ他のアンプにはかなわないが、NT4000チューンとのバランスは素晴らしいものがある。古い味のある良い真空管を使用し、オフセットキラープロ・ベリヒテンでチューンして、ドイツの20㎝クラスのフィールドスピーカーで鳴らせば、これ以上の装置は必要ないといえる。
AH!もこれからも素晴らしいものはどんどん出る。お金がある人はそれを追い続けるのも楽しいと思うが、私が皆様にお願いしたいのは、今ある装置をベストな状態で鳴らしていただきたい、ということだ。

「上の上と思っていたら特上の下だった」と書き込んで下さった人がいた。そこに気がつくことが、その方の聴く力を向上させることだ。視野を広げ、聴く音楽が楽しくなる。
高額な装置を持っていてもその音をききわける耳のレベルの低い人は日本には多々いる。そうした人に共通するのは、自己満足と自慢である。
知ろう、学ぼう、と思わなくなった時点で終了だ。自分の考えと違う考えから勉強は始まる。他の人は良いというのに自分は良いと思わない、そこに疑問をもつかどうかだ。食わず嫌いは偏見に満ちたものとなるのは明らかな真理だ。
しっかり消化し血肉になった後に嫌いになるのはしかたないことではある。
しかし、何事も経験だ。
経験には時間とお金がかかるが、経験された方から学ぶことは手っ取り早い最善の策といえる。音は人なりということであろうか。
装置を換えても自分は変えられない。良い音にするためには自分を変える必要もあると考える。
AH!のめざす音
2008年 05月 25日 (日) 17:30 | 編集
今日、いまのこの瞬間、久々に「いい音だな」と思えた。
コーヒーをゆっくり飲みながらの至福のひと時。
私はクリフォードブラウンという交通事故で早世したジャズトランペッターが好きで、この人の演奏が自宅で納得する音で聴きたいと思い続けてきた。
そのクリフォードブラウンがすぐそこで演奏してくれているような、そんな気分にようやくなれてきた。

先日から当店の玄関の試聴室に次々と新製品が投入され、いままでここで聴いたことのない音が繰り出されている。
当店を訪れた人ならご存知だろうが、オーディオを玄関ホールに設置しているのだが、それを聴くのは隣のリビングなのである。それが凄く心地がいいのだ。
いい音だと思える音は数多く聴いてきた。しかし今回の音は今までのそれらとは少し違う。いい音であることに間違いはないが、音楽が楽しい。コーヒーを飲んでいても、他の事をしていても、すーっとそっちに耳が傾いてしまう。演奏家の表現したかった意図が手に取るようにわかる。
現在この玄関ホールに使っている装置はミスティルA11、プロローグ8、スピーカーは20センチのメンデ(フィールドSP)にベリヒテン平面バッフル、電源ケーブルはトリプルジャバラ、SPケーブルはKB10ダブルジャバラ、インターコネクトは幻となったシルバーリボンジャバラ、もちろんオフセットキラーもつけている。
であるからして、悪い音が出るわけがないのだが、今までこういう聴こえ方をしたのは初めてなのだった。

オーディオ的音とはかけ離れた音で、楽器的な音がする。聴きやすく、音がうそっぽくない。作られた見よがしな音でもない。これは音域を論じるべきものではない。数値などというものさしは必要がないのだ。そして、ニアフィールドで聴かなくとも満足のいく音。あえてオーディオ的な表現をすると、いままで聞いたことのないようなスピードの出る音だ。にじみがなく濁らない。どこまでも澄み切った、なのに柔らかく力強い。遠くまで音が届く。どこにも属されないような音。

日本のオーディオと海外のオーディオの評価基準はかなり異なることをご存知だろうか。
日本も最近ウェスタンエレクトリックなどが流行ってそれなりに古い音も評価されるようになったが、それでもやはり、高音が強く低音が遅い現代的音を支持する人は圧倒的に多い。家電量販店の高級オーディオルーム、そこに置いてあるオーディオ雑誌と取扱商品を示す付箋。評価基準の貧しさを感じざるを得ない。
当店に「私は高額なSPを持っていて、楽しんでいる」という電話があるが、そういう人と音の聴きどころの話をすると、漠然とした話にしかならない。よく私が言うように、低音のスピードとか、音の響き、にじんでいない音とは、エア感や普通の音、そうした話にはなかなか出来にくいし、そういう聴き方もしていない。
価格の0の数はものさしではないのに、これがいまの日本のオーディオ界の現状なのだろうと思う。

かく言う私も、最近になってようやく自身がオーディオの音の表現の仕方とか、聴き方とかがはっきりと話せるようになったし、なにがよいものかもわかるようになった。
昔の名スピーカーやAH!の装置を聞いていると、世界のオーディオファイルが求める音の傾向が理解される。AHのマーセル氏やドイツのHIFIコレクターとか、ごく一部のかなりレベルの高いオーディオファイル達が、求める音だ。
当店にお付き合いいただくお客様も、その音の評価をしてくれるようになった。当店に初めて来ていただくお客様でも、以前よりも評価をいただくことは多くなった。
ただ、瞬間聴いただけでは理解が難しく、何時間か聞いてもらってはじめて、音のスピードや滲みのなさ、楽器的な音に理解がいく。
当店のお客様は、そういう聞き方をして、自身の装置のレベルを上げて楽しんでいる。しかし、そういう人も個性はある。好きな音の傾向はある。好きな音の傾向を大切にしながら、よりいろいろなジャンルのものに、興味が出てくるし、理解しようという傾向にある。
例えば、ジャズしか聴かなかった人が、クラシックを聴くようになったり、ジャズ・クラシックが好きで、ロックを聴かなかった人がロックを聴くようになったりと、視野が広がっている。それは不思議な現象のような気がする。

AH!のめざす音、それはオフセットキラープロにも象徴される。
オフセットキラープロはある意味、オーディオファイルを二分する装置だと私は考える。この音の変化が、楽器的音が好きな人と、オーディオ的音が好きな人が分かれる気がするのだ。オフセットキラーの音は染み入る音でにじみがなく静かな音になる。それをどう評価するかである。これは聴き方によっては、高域が物足りなくなって、エネルギー感が失われたと評価する人も出てくるだろう。
だが、これが世界のトップレベルが求め、作り、行おうとしていることだ。
これを日本のオーディオファイルはなんとするのだろう。大して高額でもない、きらびやかな音の変化でもない、しかしその音の変化はオーディオの本質をついているとしか思えないのだ。

アナログレコードとコンパクトディスク
2008年 02月 20日 (水) 16:01 | 編集
アナログレコード(以下アナログ)とコンパクトディスク(以下CD)、未だにこの二つについて議論する人は多い。どちらがどう優れているのか、音の良し悪し、機器の良し悪し。最近はそこにSACDも加わる賑やかさである。
それでも最終的にオーディオファイルたちはアナログに憧れ、アナログに軍配をあげる。それはやはりアナログのもつふところの深い魅力なのであろう。斯く言う私も今またアナログレコードを少しずつ買い足している。
CDにくらべると何かとアナログは手間がかかる。スイッチひとつで音が出るCDとはまるで違う。そのかかる手間にアナログの醍醐味はある。
レコード一枚を突き詰めてみる。ジャズ系で言うなら東芝EMIのブルーノート版、それよりもブルーノートのセカンド・サードアルバム、それよりの初回発売オリジナル版のほうが音が良いと思う。クラシックで言うならデッカやコロンビア等のヨーロッパの1960年代のオリジナル版。それよりもっと良いと思えるのがステレオでなくてモノラル版。それよりさらに私が鮮度が高いと思えるのはHMVの蓄音機などで聴くSP版。そこまでいくと、確かにレンジは狭いし、新しい音楽ばかり聴いている人には古めかしい音に聴こえるだろう。だがしっかりした蓄音機で聴くSPの音は私は本当に素晴らしいと思う。その時代の空気感が古い音には確実に詰め込まれている。音楽性が高く、本当に人の声がする。楽器も本当にそこで鳴っているような味わいのある音がする。アナログを極めたいと考える人であれば、是非ともSPを聴いてもらいたいものだ。
古いものに学ぶことは多い。単純なアナログとCDの比較にしても、である。音楽を聴くことについてもっと簡便に、もっと鮮やかな音をと進化した結果のCD。だがときにアナログに向き合うことで、音を極めることの原点に立ち返ることができる。
アナログは音を出すためにいくつかの道具と手順が必要で、これら如何によって音が良くも悪くもなる。個性も出る。アーム・カートリッジ・イコライザーなどのハードの選択。オリジナル版を探し求めるソフトの選択。音を出すこと、選択したものを聴きわけることは、それに要した手間と時間に比例して、楽しくもあり、音に敏感にもなる。アナログにかけた手間と時間とその耳は、CDの再生にも生きてくる。何をいい音と感じ、どのようにその音を表現するのか。それがまさに私の言うところのオーディオの調律である。
私も実は少し前までそういった意味でCDよりアナログのほうが好きだった。音楽性もあると思っていた。

それを一変させたものがある。NT4000に真空管クロックを取り付けたものだ。このCDプレイヤーはアナログを再生させるのと同じくらい、場合によってはそれ以上に繊細で、奥の深いプレイヤーだ。このクロックはCDのデジタル臭さを消し去った。アナログのような温かみと生々しさが再生できる。音だけではない。このプレイヤーは手を加えることによりどこまでも進化をしていく。Upサンプラーや別電源をつけるといったオプションももちろん音を変化させる。NT4000の躯体の弱さはコストパフォーマンス故だが、これを克服するとさらに音の鮮やかさが増してくる。
そして言い忘れてならないのが、NT4000は真空管を使用したCDプレイヤーであるということだ。真空管の交換は自分の好みの音を追求する簡単な方法である。しかしこの“好みの音を出す真空管”を探すことは、当然ながら骨が折れる。
また、細かい音まで再現するこのプレイヤーは、昔のCDを改めて鑑賞する楽しさも持っている。久しく聴いてなかったCD、大量生産の廉価版のCD、それらのCDから今まで聴いたことのなかったこまかなディテールが聴こえてくるようになったのもNT4000のプレイヤーだからできることだ。

アナログとCD、どちらがどう優れているという議論は終わりがないし、意味もないと私は思う。大切なのはそれぞれをどこまで追求し納得のいく音を再生させることができるのか、それにむける情熱を持ち続けることができるのか、ではないだろうか。
オーディオマニアの音の聴き方
2007年 10月 30日 (火) 19:48 | 編集
オーディオから出てくる音について会話をしていると、何かしらの違和感を覚えることが多い。
私が感じる違和感は、あまり多くの人に賛同を得られることはないかも知れないが・・・。
そんな違和感のひとつ。

オーディオマニア100人が同じ音楽を聴いていても、それぞれは違う音を聴いている。流れてくる音はひとつでも、その音の判断基準は100種100通りだ。普段聴く音、それは聴くジャンルや装置、または環境により、その人の聴きどころが決まる。
 ときどき「やはりライブ会場の音はオーディオよりずっといい」というオーディオマニアがいる。確かにライブ会場には独特の雰囲気がある。演奏者の緊張、聴衆の興奮、両者の間の空気感というのは、なにものにも換えがたい感動を生むのはわかる。そうしたライブ、コンサートは私も大好きだ。
しかし、それと音の話は別である。楽器をニアフィールドで聴くのは結構しんどいものだ。我々は決してグランドピアノに頭を突っ込んで聞くことはない。
ライブ会場は反響音9割、生音1割。程度の悪いホールだとせいぜいそんなものである。ましてやマイクやスピーカを通して聴く音というと、どれほどが生の音といえようか。
 優れた調律師は演奏会場と演奏者に合わせて調律を行う。すると演奏者と調律師の意見が合わなくなることもある。演奏者と調律師が楽器を聴く立ち位置がそもそも違うのだ。楽器に寄り添って聴く演奏者と数メートル、数十メートル離れたところで聴く聴衆。届く音は異なる。
 そして音はマイクに拾われ、スピーカから拡声される。ましてやそれを録音、ということになるとマイクセッティングでその音はまったく変わってしまう。
 それらを鑑みて「生音が好き」といってもらいたいものだ。

音を聴くとき、自分の聴きたい音、聴きやすい音を聴いてしまう。低域を聴く人、高域を聴く人、このCDのこの曲のここの部分はどう聴こえるのか、そうやって装置を判断する人。
 当店にJBLの3WAYスピーカがある。D130・16Ω、スピード感がそれなりにあるウーハーなのだが、瞬間に聴くと中域のエネルギーが強いため、「もう少し低域がほしい」と言われる人もある。実のところそう言わせようと設定をしている。初めにそれを聴いてもらい、次に中域をカットする。すると「低域も出ているんですね」ということに気付く。そしてもう一度中域を復活させる。そうすると「低域もしっかり聴こえる」と言ってもらえる。もちろんヴォリュームも曲もまったく同じだ。
 これはどういうことだろう。おそらく頭の中で優先順位を決めているのだ。知らず知らずにそうやって出てくる音を判断している。だが、一度低い音に気がつけば、音を聴くことはできるのだ。
 自分の耳をニュートラルにすることは難しい。先入観とはいかないまでも聴くポイントのくせはある。自分の耳とはどこのポジションを中心に聴いているのか、それを自覚することはできるのではないだろうか。
 私にも音を聴く聴きどころがある。低域のスピード感、中域の厚み、伸びる高域、そうした聴きどころを理解してもらえる人とは自ずと会話が弾んでくる。

 「オーディオの音に敏感」と自負する人に問うてみたい。あなたの思うオーディオの音とはなんですか。
ナチュラルな音
2007年 09月 05日 (水) 14:29 | 編集
現代のスピーカ(以下SP)はレンジ感が広くゆったりと鳴るものが主流を占めている。
だがそうした装置は高域が甘くなるきらいがあって、そのため高域のレベルを上げている。すなはち、低域を遅くして高域を速くする。また、スーパーツィータを足して高域を足してゆく。すると高域の明瞭度が上がる。そして現代のアンプ、プレイヤー、ケーブルもそういったSPにあわせたエネルギーやバランスのとり方を行っている。

当店にソナスファベールのconcertinoという小型SPがある。このような最近のSPは低域をゆっくり出すことで量感を持たせている。またSPやツィータの素材も量感を持たせるものを選択している。
現代のSPは20㎝程度の小型のSPを2個程度並べて構成されているものが多い。そうしたものはポンとおいただけでは低域は出にくい。それなりの調整が必要で、調整を行えばそこそこ音は出てくる。しかし、昔のものに比べるとスピードのない低域である。小さなSPに量感やエネルギー感をもたせるために、高域と低域のスピードをずらすことをしている。だがそうなるとスピードのばらつきによる音の不安定さも耳につきはじめる。
最近のB&Wなども、機種を問わず、高域は強くスピードがあるが、低域はもたついている傾向がある。

そもそも、なぜ海外でこのような上下のスピードにばらつきのあるSPが評価されるのか私にはよくわからなかった。これはベリヒテンを開発し使用し始めて初めてわかったことだ。手前味噌ながら、当店のベリヒテンをかますと、不思議に上下のスピードがあってくるのだ。スピードがあうというより、短所として聴こえていたスピードのばらつきが、量感を持たせるための長所として耳に届きだすのである。
上下のバランスが整いだしたSPからは当然いい音が出始めた。私の中で評価の低かったB&Wも、ベリヒテンを使うことでなかなかどうしてよいSPであるとわかるのであった。

おそらく、日本の気候風土や家屋の設計はオーディオをそのまま鳴らすには不向きな環境なのであろう。木造、湿気、電圧の違い。部屋のつくりは?壁材は?敷物は?その室内はオーディオに付帯な音のつく環境に満ちてはいないだろうか。
多くのオーディオマニアが付帯な音のついたオーディオを聴いているのではないかと私は懸念する。その装置の音質と付帯音のある音質では根本的に違う音だ。それをわからずに聴いているオーディオマニアはあまりに多い。
付帯なものを取り除く努力をしてほしい。

では、付帯な音のないナチュラルな音はどういう音かというと、とても難しい。 ただ、AH!もベリヒテンもナチュラルさをとても大切にした装置だし、グッズである。

それぞれの装置にそれぞれの個性がある。その個性を大切にしているか。そもそもその装置の本来の音を聴き分けているか。調整グッズは世の中にゴマンとある。そしてそのグッズにも色や個性がある。
ナチュラルな装置は調整をしてゆけばゆくほど、臨場感は増す。音楽にリアリティがでてくる。音でなく、音楽に浸ることができるものだ。
ナチュラルなグッズは足せば足すほど静けさが増す。音の癖が取れてゆく。
AH!やベリヒテンはそれを実現できている。

足すほどに音の濁るようなグッズはナチュラルとは対極にあると私は考える。

昔も今もナチュラルな音を求めるのがハイエンドであると私は考える。
しかし、どうも最近変わってきている。個性的な音が増えている。
付帯音を前提として、それを力まかせにクリアしようとしている。そんなアンプやケーブルが増えている。
暗闇を照らすサーチライトのごとく、付帯音に満ちた装置をエネルギーと解析度だけでくっきりはっきりさせるような・・・・・。
独りよがりのオーディオにならないために
2007年 08月 17日 (金) 13:55 | 編集
ひとりで音の調整をつめていると、一体何をしているのかわからなくなることがある。
もう少し高域を出そうとしてチューニングをするうちに低域に物足りなさを感じ、そうこうすると気がつけば全体のバランスを欠いてしまっているとか。音の明瞭度が上がった(ここのシンバルがよく聴こえるとか)などの小さな変化には敏感だが、その変化がいいものなのか悪いものなのか、もとい、好きな変化か嫌いな変化か、判断つかなくなってしまっているとか。

音を聴き取るというのは結局は主観であり、自分が聴いて感じることがすべてである。そういった意味では一人で音を極めて、一人でその音に満足することも間違いとはいえない。自分の耳に届くものが心地よければいいのだから。
だが、そんな人はほとんどいないだろう。私の知る限りオーディオマニアとは自己顕示欲が強く探究心も旺盛なものだ。

私にも幾人かのオーディオ仲間がいる。新しい装置を入れ、調律を行っては、聴きに来いと電話を入れる。彼らとともに音を語りまた新たな調律を開始する。自分以外の誰かに装置の音を聴いてもらうことで客観的な判断が加わる。自分の音の方向性を再認識することができるのだ。
私もまたオーディオ仲間のもとを訪問する。彼らの装置やその調律の能力に敬意を払う。(私の友人は悔しいほどにいい音を出している)

当店を訪れる人の意見はおおまかに二分される。もう少しこうなるといい、といったふうに対策めいたことを言う人。この装置ではこう聴こえる、と出てくる音の特性を聴こうとする人。前者のようなあら探し的なことを言う人ほど、そういった人の家を訪れるとたいていバランスの悪い音の鳴り方をしている。自分のやり方が一番、と思っているのかそうでないのか。少なくとも、様々な装置や人から学ぼうという姿勢が感じられない。
自分の出す音はもっと良くなる。当たり前だが向上心と探究心と他人の話を受け入れる謙虚さが大切なのだと思う。

極めつけは素人の意見だ。
高域だの低域だの位相だのそんなことは知りもしない人の感想。これほど一喜一憂させられるものもない。素直に「いい音ですね」といわれることがなによりうれしい。
家人の意見は辛辣だ。遠慮も容赦も専門用語もない。「きつい」「うるさい」ばっさり切られる。悔しくもなぜだか従わざるを得ない。

こうして私が装置を聴きに行ったり聴かせたりするのはなによりそれが楽しいからであるが、何かしらの客観的な判断を求めたいからである。
いろいろな装置に耳を傾けいろいろな音を知り、意見をたたかわせ、更なるいい音を求める。
同じ音を仲間と聴き、どのように聴こえるのかを語り合う。自らの知識と技術を総動員するなんともスリリングなディスカッションである。
オーディオ装置は楽器である
2007年 07月 12日 (木) 10:30 | 編集
オーディオ装置は楽器である

オーディオは所詮擬似音、だからこそ大切なものがあると考える。オーディオを楽しく、素晴らしく聴くためにいろいろな方向から突き詰めていたら、ふと自分の中で思ったことがある。
楽器をスピーカーがわりにして音を楽しんでいるオーディオ評論家がいた。演奏家たちは、自分の楽器にオーディオ装置で音を聴かせると楽器の音が変化する、と言っていた。それならばオーディオ装置を楽器とみてはどうだろうか。そうすると調律が大切であるのが明確となる。

オーディオの個性、特徴。アンプ、プレイヤー、ケーブル類の組み合わせ。それらをひとつの楽器としてその鳴り方を考える。擬似音とか、にせものという話ではなくなる。演奏会場で聴くリアルな音を求めるという話でもない。それがオーディオのある意味での楽しみ方ではないか。そこには高域がどう低域がどうのと言った話でなく、どう音楽を聴きたいか、どう音楽を鳴らしたいか、自分が演奏家としてその楽器(オーディオ)をどう演奏するか、そうしたことに楽しみを見出すことができるのもオーディオである。
オーディオ装置を聴いて「いい音だ」とするのではなく、自分の聴きたいソフトを聴いて「いい曲だ」とする。その装置から出る音を判断するのは音でなく曲。判断の視点を変える。一音一音を聴きわけるのではなく、曲全体のバランスを聴く。それがオーディオを楽器と捉え、オーディオを調律するスタンスである。

 音楽を聴くというより、音を聴くというマニアはメーカーも含めあまりに多い。それを象徴するのがスーパーツィーターやスーパーウーハーの存在だ。音の明瞭度を上げるため一音一音を固めている。足りない音をそれらで補うことや、にじみをとるため高域特性を上げることが、いい音になるかというと、決してそうではない。音量を下げると音はやせるということは、あまりにも中域をないがしろにしているからだ。 
数値の話を好む人がいる。周波数特性、歪率特性などなど。それらは時としてその装置を表す誰に対しても明確な指標であることは私も否定はしない。しかしあまりに数値にとらわれすぎて全体がないがしろになっていないだろうか。音のよしあしの判断を数値に頼ると見えなくなるものがたくさん出てくる。
数値の話をする人、高域低域の話をする人というのは、得てして長い時間音楽を聴こうとしない。一曲を全部聴かずその一部を聴いてその装置を判断する。それはとても音楽を楽しむという姿勢ではない。だが、これは私もよく家人に指摘され、反省するところではある。

装置をどういう音で鳴らしたいか。聴きたいソフトの演奏者の音をどう表現したいか。音のいい録音ソフトをかけることもひとつの手だが、録音は悪いが名演奏といわれるソフトをストレスなく聴けるように調律することは、装置の所有者の耳だめし、腕だめしともいえる。

楽器の調律は高低域を強調することではない。バランスのとれたきれいな音色を出すことだ。いい楽器はしっかりした強い音も出るが、ストレスのない、きれいな響きが出る。それをオーディオにも求めたい。
音のツボ
2007年 05月 19日 (土) 10:27 | 編集
オーディオをやっている人なら誰しもがいい音で聴きたいと思う。
いい音を出すには手段がいる。当然いい装置を買う。いいセッティングをする。
だが、大事なことは、いい装置、いいセッティングとは何かということを常に追求する姿勢、向学心である。
一般的にはオーディオショップへ行って、そこで自分の好みの音を見つける。しかし、オーディオショップでの音が自宅でそのまま鳴るかというとそういうものでもない。
また、いい音を見つけるというよりも、自分の好きな音を見つけるほうがいい音への近道かもしれない。

たとえば当店のお客様で、プロローグ1(プリメインアンプ)とNT4000(CDプレイヤー)を購入した方がいる。
初めに電話があったとき、その方はプロローグ1よりもはるかに高いアンプをすでにもっていた。きけばスピーカーも良いものである。ケーブルも有名メーカーのものだ。
そんな人が、どういうわけか私の口車に乗り、プロローグ1とNT4000を買おうという話になった。
そうして、そのシステムから聴こえてきたのは、今まで聴こえてこなかった充実した音。
そして、ケーブルもAH!のものに換えた。換えてすぐは物足りなさを感じたという。そこでスピーカーのセッティングを変えた。するとそれが素晴らしい音に変わったという。
以前使用していたケーブルは強い音だったため、スピーカーを内向きにしていた。それを平面に戻したのだ。するとスピーカーの横や後ろからも音が聴こえはじめ、サウンドステージの広がりをみせた。音のエネルギーや強さもしっかりとわかるようになった。
この例は一つのオーディオの答えである。
ケーブルの交換、そこから聴き取る音の変化、どうしてそういう音が聴こえるのか、どうすればよりよい音に変わるのかを判断して対処をする。

装置をぽんと聴きにいくと、その装置のどこがおかしくて、それにどう対処すればいいのかが瞬時に解る人がいる。
セッティング(リスニングの環境も含め)を整え、装置本来の音を導き出す。それでも音に物足りなさを覚えるならケーブル類やひいては装置の交換に至る。
それはすべてその人の耳のなせる業である。
いいセッティングやいい調律はたくさんの音を聴くことでしか学べない。たくさんの音の中からいい音をみつけていく。そしてそれを自分でも作り上げていく。

私の考えるいい音のポジションとは、中域が厚い、上下がなくても聴ける音、スピードが速い、センターに調整してあっても左右によってもバランスがあまり変わらず充分聴ける、隣の部屋でもいい音に聴こえる、といったところだ。これを目指して自宅の調律をする。
それでも、どれだけ調整をしても、もっといい音になるのではないかと試行錯誤の日々である。
小音量のリアリティ その3
2007年 04月 30日 (月) 22:56 | 編集
小音量でいい音にするためにはスピーカーを充分に駆動させることである。
そしてそのためにはアンプとプレイヤーが必要。いいアンプといいプレイヤーを選べば、いい音でなる。
 いいアンプとは、中域が厚く、解像力があり、音楽性のあるアンプ。音楽性を得ようとするならサウンドステージの明確化と高域のエネルギー・低域のスピードが要求される。
 いいプレイヤーについて、よく情報量の話を聞く。それも必要ではあるが、忘れてならないのが低域のしまり、にじみのない高域だ。これらを出せるのがいいプレイヤーである。

そして、それらにもまして重要なのが、装置本来の音を引き出すためのノウハウと、その装置の使い手の技術力である。
これを教えてくれるオーディオショップはほとんどない。言い換えるなら、オーディオの調律ということを真剣に取り組む人が少ないということである。 装置を置けば音が出るというのは大きな間違いである。 どんなに有名な名楽器でも調律しなければまともに鳴らない。これは楽器を演奏する人にとってはしごく当たり前なことだ。だが、日本におけるオーディオマニアはなかなかそこに着目できない。

オーディオの調律とは一体どのようなものか。

音をよくするためのグッズというものはいろいろと販売されている。それを使って音の変化を感じることはできる。しかし “良くなった”のか“悪くなった”のか判断つきかねているオーディオマニアを目にするものもまた現実である。どんなによいグッズでも、使用の目的と方法が適切でなければ、音を小さくしたときに、まともに鳴らない。
 
あるオーディオグッズがある。そのグッズを多用するほどに、必要な音が現存し、くせがなくなるのなら、それは装置本来の音であり、グッズの個性は消える。

ヴォリュームを下げていくと、低域の音、高域の音というものは聞こえにくくなる。これもまたしごく当たり前の話。
たとえ高域・低域が聞こえなくとも物足りなくなく、満足いく音というのがいい音である。それは中域がしっかり出ているからである。

なぜこのように中域に固執するのか。それは中域こそが音楽の中心であるからだ。
以下はAH!NT4000の評価記事の引用である


疑う余地のなく、人を引き付ける魅力はミッドレンジ。(中略)
それはまさに楽器の肉体の部分であるからである。オーケストラの平均スペクトラムは400~500Hzがピーク。それから周波数が高くなるにつれて減少する。2.5KHz~3Khzではピーク時の20Db以下。もちろんローミッドレンジは基本音として、そして第一倍音として豊富である。特に262Hz~330Hz(C4~E4)のレンジはすべてのボイスの共通周波数。 私の辞書では、もし機器がミッドレンジが正確でないなら、周波数の伸び、イメージング、その他すべて非常に少ないものとなる。ミッドレンジこそがものごとのすべての心臓部である。

 
 小音量にすることで、高低域の聞こえにくくし、中域を浮かび上がらせる。たとえ高低域の音がなかろうとも音楽の中心である中域が充分に音がでているのであれば、なんら物足りなくはない。小音量にしたときそういった満足感が得られるのなら、その装置はバランスの取れたいい装置といえる。

音の満足感を得るために、スーパーツィータやスーパーウーハをつける人がいる。小音量で聴いたときそれらはあまり意味を成さなくなる。音楽のリアリティは中域にあり、中域の満足感こそが音楽を楽しむ根源ともいえる。

小音量のリアリティとはオーディオを調律する上でのキーワードである。

小音量のリアリティ その2
2007年 03月 23日 (金) 20:58 | 編集
ごく当たり前のことであるが、オーディオはスピーカ(以下Sp)を駆動して音を出す。
Spを駆動するためにベストな状態を整えるのが基本的にいい音を出すやり方と言える。

小さな音というのはすなわちSpにあまりエネルギーを与えないことである。ほんの少しのエネルギーをもっていい音を出すには、Spをしっかりと駆動させることに結びつく。

大きな音で聴くと、それなりの量感や臨場感を感じることができる。それを小さな音で聴いたとき、果たして同様の臨場感、サウンドステージを感じることができるのであろうか。

昔のSp を小音量で鳴らしている人が多いのは、昔のSpは小音量対応型であるためだ。
入力W数が5Wで限界など、エネルギーを与えられないこともある。また軽いコーン紙で軽く音が出る。スピードも速い。そのため低音は量感不足に捉える人もいる。

それに対し現代のSpは量感を出すためにスピードを遅く設計されている。能率が悪く、小さい音では反応の鈍いSpになっている。入力W数が70~80Wと大きくなっているのもそのためで、そもそも大音量で聴くようになっている。ゆえに小音量ではにじみやすいしぼけやすくなる。
穿った言い方をするならば、ボリュームを上げることで細かいディテールやサウンドステージの広がりを補っているということになる。

それを小さな音=小さなエネルギーでもSpをしっかり駆動させ、大音量と変わらないサウンドステージを得ることがいいシステム、いいセッティングであるといえる。
小音量のリアリティを追求することはいい音の追求である。
小音量のリアリティ
2007年 03月 07日 (水) 14:50 | 編集
うちに試聴に来るお客様には、大きいボリュームで聴く人もいれば、微かな音で聴く人もいる。
普段聞いている音量は千差万別であることは当然であるが、大雑把に二分できることも否めない。
大きな音量で聴くと、曲に迫力とエネルギーがある。小さい音で聴くとエネルギーに欠けるかというと、決してそのようなことはない。小さな音量で聴いたときに満足感が得られるようにするには、調律のされたそれなりの装置が必要である。

小音量では音に物足りなさを感じ、ついついボリュームを上げる。
大音量に包まれてその装置の奏でる低音の響き、高音の伸び、微細な音を存分に楽しむ。
だが、音と装置にエネルギーとパワーがあればボリュームを下げても充分に楽しる。むしろ積極的にボリュームを下げたくなってくる。小さな音でも細かな表情を伝えてくれる装置というものは、その装置を所有するものの自尊心をくすぐる。

深夜、人々が寝静まり、外も暗くひっそりとしている。そうした静けさの中、小さな音でオーディオを鳴らす。その音は一音一音がリアル。
闇と静寂がもたらす至福の時間。そこに大きな音は似合わない。
小さな音の力強さと豊かさに酔い、それを奏でる自身の装置に酔う。

では、そんな小音量でのリアリティとはなんだろうか。
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